旅、特に島旅に出かける時に必ず持っていく一冊の本がある。星野道夫さんの「旅をする木」だ。書いてあるのは極北に生きる人や動物の物語だけれども、旅先の待ち時間や、手持ちぶさたな時に無性に読みたくなる。
自分を取り巻くいつもと違う風景。想像することでしか今はまだ触れることの出来ないアラスカの地の風景。それがどういうわけか、実によく合う。
今日8月8日は星野さんの11回目の命日。忙しい毎日でもどういうわけか、この日が来ると周りの誰か、何かがそれを思い出させてくれる。今年は八丈島に行く時に「旅をする木」を手にとって、思い出した。もうすぐ一年に一度の日がやってくると。
帰りの船の上で読んだ「十六歳の時」の章の最後にこういう一編がある。
「バスを一台乗り遅れることで、全く違う体験が待っているということ。人生とは、人との出会いとはつきつめればそういうことなのだろうが、旅はその姿をはっきり見せてくれた」
あの時、あの時、と遡っていけば、そこには偶然としか思えない瞬間がある。今回の八丈島の旅をこれほど的確に言い表した言葉もないと、航跡を見ながら旅の終わりに感じたのを今日、ふと思い出した。
銀座の松屋で開催中の「星野道夫写真展 星のような物語」を観てきた。今日8月8日で星野さんが亡くなってから丁度10年。会場には平日にも関わらずたくさんの人が足を運んでいて、この10年という歳月は彼の写真と文章を埋もれさせるどころか、より深く理解する人たちと、新たに惹きつけられた人たちとを生み続けているのだと、今さらながらに感じることができた。
写真の展示数は前回の「星野道夫の宇宙」の時より多いだろうか。カリブー、グリズリー、ムース、ホッキョクグマ、ザトウクジラ、アラスカで暮らす人々、と言った大きなテーマに沿った展示がされていて、合間にも様々な動物、植物、アラスカの自然がちりばめられていた。
この10年を振り返った時に、星野さんの写真と文章が自分に与えた影響は計り知れない。そのいちいちを挙げていったら、どうにも青臭いものになってしまうのでやめにしたいけれども、やはり「大切なのは、出発することだった」という言葉通り、思うより先に行動に移していかなければ、という励ましを受けていたように思う10年だった。それを実践できていたかはともかくも。
会場で買った文庫版「旅をする木」(ハードカバー版はすでにもう何年も前から本棚にあるのだが)を読んでいて、「アラスカとの出合い」の章で、星野さんは自分がアラスカに関わるきっかけになった一枚の写真を撮った写真家と偶然会うことになる話を書いている。その章の結びにこうある。
「人生はからくりに満ちている。日々の暮らしの中で、無数の人とすれ違いながら、私たちは出会うことがない。その根元的な悲しみは、言いかえれば、人と人とが出会う限りない不思議さに通じている。」
彼をアラスカにいざなった一枚の写真。彼が伝えてくれた極北の地と人の生き様。星野道夫という希有の存在の写真家を知ることで得た、人や物事との出会い。その限りない不思議さを、会場にいる間中ずっと考えていた。
今年の8月8日は、星野道夫さんが亡くなってちょうど10年。それに合わせて色々な企画が行われる。
まずはNHKハイビジョンスペシャル「アラスカ 星のような物語」。7ヶ月の長期アラスカロケで星野さんの足跡をたどり、映像、写真と言葉、撮影日誌で綴る特別番組だそうだ。問題は、ハイビジョンが見られない、ということ(T_T) 誰か録画してオレにください・・・。
ただ、同じ内容ではないものの、映像作品として、DVD「アラスカ 星のような物語」全三巻も発売になるそうだ。「感受編」 「思索編」 「希望編」というタイトルが付けられている。こちらは買ってみることが出来るけれども、どこまで星野さんと関わりがあるのか、気になるところだ。でもアラスカというだけでそそられる。
そして、一番楽しみにしているのが、松屋銀座で開催されるこれまた同じタイトルの写真展「星のような物語」。8月2日から14日までの会期で、もしできることなら8月8日の命日に合わせて会場に行きたいと思うけれども、平日なので無理だろうなあ。でも、日曜日でどんなに混んでいようとも、必ず行きたい。前回松屋で行われた写真展「星野道夫の宇宙」は3年前で、その時ははまげん、しーしゃんと一緒に行ったっけ。
ともかく、あの朝から10年。自分が、何が変わって、何が変わらなかったのか。何を得て、何を失ったのか。今だから感じられる星野道夫さんの世界を、このblogでも少しずつ、その区切りの日まで、取り上げて行ければと思う。
同じ日に、同じことを考える日が、一年に一度くらいあってもいい。もう何年も前からそうしていて、忘れそうになるけれど、やっぱり思い出して、考える。答えを探しているわけではない。ただ、その人と、その人の為したことを偲ぶだけ。
今日8月8日は、星野道夫さんの9回目の命日。この特別な日に、今まで買わずにいた総集編とも言える写真集「星野道夫の仕事」の第一巻を買った。これは星野さんの亡くなった後に敢行されたもので、全部で四巻ある。
第一巻目のテーマは「カリブーの旅」。カリブー(北極トナカイの一種)はカナダ、アラスカの北極圏を一万キロもの距離で季節移動する。その移動の様子を撮影するのが星野さんのライフワークの一つだった。だが、カリブーの移動ルートは毎年違っていて、予測が全くつかない。荒野に一ヶ月、二ヶ月とキャンプを張っても全く見つけられないこともあるだろう。それでも、この写真集には一万年前から変わることなく続いているカリブーの季節移動が写し出されている。
極北のインディアンの言葉に、「風とカリブーの行方は誰も知らない」というのがある。毎年カリブーを追っているアラスカの狩猟者達でさえ、カリブーがどこを通るのか分からない。それでも、星野さんは山を張って、待って、撮って帰ってきた。写真の裏に隠された彼の情熱と、努力と、運に感謝しながらページをめくる。
でもめくるたびにそれもどうでもよくなってしまって、ただただ、命の壮大な行進に目を奪われるだけになり、自分の乏しい想像力では補いきれない自然の営みを見るのに夢中になる。
以前ここで紹介した「Forests Forever」というサイトの大元は、「FUJIFILM WORLDWIDE」という富士フィルムのグローバルサイトの中の一コンテンツである。富士フィルム社の色々な情報が載っているサイトではあるが、そこはそれ、数多くのフォトギャラリーも擁していて見応えがある。
そこに星野道夫さんの写真をフィーチャーした「ALASKA...Faces of Life in the Far North」というコーナーがある。音楽をバックにFlashで淡々と四季の移り変わりを映し出していくページだが、やっぱりいい。余計なことを言うのはよそう。ぜひサイトを見てください。
彼も、写真と極限までそぎ落とされた文章によってのみ、アラスカを語ろうとしたのだから。
ちょっと前にネットを徘徊していたら、1月に新潮社から「星野道夫と見た風景」という本が出ると知った。著者は奥さんの直子さん。星野さんが亡くなってから8年の歳月が流れて、今だから書けるのかもしれない。直子さんが星野さんと過ごした5年半の回想を、撮影随行時の作品を中心に一緒に掲載したものだ。
うーん、良い本なのだ。なれそめから、結婚、日々の生活、撮影に同行した時のこと、子供のこと、奥さんでなくては書けない話がたくさんあって、読んでいて自然と涙腺がゆるんでくる。
それにしても、直子さんは結婚する前もした後もずっと星野さんのことを「道夫さん」と読んでいたというエピソードが実は一番心に残った。全編「道夫さん」という呼び方で通されていて、それだけのことなのだけれどとても優しい気持ちが伝わってきて微笑ましい。
星野さんが撮影した作品の中にちらほら混じっている、直子さん撮影の星野さんの姿とか、一緒に写っている写真だとか、素敵なカットもあるのもうれしい。
本の最後に、以前ここでレビューを書いた「ブルーベア」の著者であり、星野さんのガイドを務めたことのあるリン・スクーラーさんが直子さんにこう聞く場面が書いてある。
『「ナオコはクマを許すことができたのか?」私は「クマを許せないと思ったことはない」と答えました。』
・・・迎えに行った星野さんの顔に苦痛の影が少しもなかったから、ということからこう答えた。その部分だけで、単なる一ファンに過ぎない自分も前向きな気持ちになった。救われたというと大袈裟かもしれないけれど、そんなような気分。文章量はそれほど多くはないけれど、直子さんと星野さんの人柄が伝わってくるいい本だった。
この本のことを書いていて、はたと思い出したのが、りかーちんにメールで教えてもらった「コヨーテ」という雑誌。旅について考える雑誌、という感じだろうか。この第2号はすでに去年の10月に発売されているけれど、バックナンバーも入手可能だ。
この雑誌の存在を教えてもらった時に思ったのが、「星野さんの文章はもうほとんど出尽くしているからあまり目新しいことは載っていないだろうなあ」ということだった。しかしいざ手に取ってみると、実にズルいのだ。いやいい意味で期待を裏切られたというか。「星野道夫はどんな本を読んで冒険に出かけたのか」という主題の元に、彼の本棚の700冊の蔵書リストが載せてあり、「冒険に向かう20冊の本」というコーナーでは彼の文章や撮影行に少なからず影響を与えたであろう本の解説がある。
生前、雑誌「Swicth」での特集に、インタビューの余興としてその場で好きな本を10冊上げてもらい、簡単な思い入れなどを語ってもらった、という文章も載っている。その他にも興味深い文章が載っていたり、「星野道夫のフェアバンクスと料理案内」なんていう付録まで付いている。一冊の雑誌にしてはかなり内容の濃いもので、むさぼるように読んだ。
そういえば、以前星野さんの本を上げて気に入ってくれたしーしゃんが、この本を持っていて、家に遊びに行った時に「これ知ってる?」と出してきた時はうれしかったなあ。自分の好きなもので、誰かと繋がっている、というのはなんて素敵なことなんだろうと思うよ。
星野さんの八周忌の記事を書いている時に、同じ記事を書いている人がいないかネットをうろうろしていたら、当然のように「地球交響曲」のサイトにぶつかった。星野さんは「地球交響曲 第三番」のクランクインの時にはすでに亡くなっていたものの、映画全体を貫く縦の糸としてその文章と、彼の友人が彼を語るという形で出演していた。
その後、「ガイア理論」のジェームズ・ラブロック博士や、チンパンジーの研究者ジェーン・グドールなどが出演した「第四番」が製作されて、もちろん見にいった。「面白い」という類いの映画ではなく、地球全体や人間そのものについて考えさせられるものなので、好みが分かれるところだけれど、他にない映画であるし、良い作品だと素直に思う。
・・・自分にとっての大事な日について書いていたら、また忘れていたものを思い出させられた、そんな気分だった。しかもロードショーが始まる半月前。
今までの4作とも、必ず一人は知っている人が出演していたが、今回の二人、「アーヴィン・ラズロー」と「石垣昭子」はどちらも知らない。それだけにむしろ興味を引く。東京でのロードショーは、8月28日(土)から9月12日(日)まで、有楽町の東京国際フォーラムであるそうだ。時間のある人はぜひ。くわしいことは、上記のリンクからどうぞ。
今年もこの日になった。語呂が良いからか、8年前のこの日から、一度も忘れたことがない。8月8日は写真家の星野道夫さんの命日。
先週、ちょっとしたことから恵比寿で「白クマになりたかった子ども」というフランスのアニメ映画を見た。映画の出来不出来はともかく、映画の根底に流れるテーマが「昔は人と動物の境目が曖昧であり、人は望めばクマにもなれたし、クマは人にもなれた」という神話観だった。
奇しくも亡くなる何年か前から星野さんがアラスカで取り組んでいたテーマに一部重なるし、子供向けに書いた写真絵本「ナヌークの贈り物」の内容である、クマ(とそれに象徴される自然全て)と人との命のやりとりを伝える、という部分にとてもよく似通っている。
しかし、例えばその相似から自然保護だとか動物保護、懐古主義を論じるつもりはない。ただ、忘れかけていても、こうして毎年何らかのきっかけで大事な日を思い出す。そんな日が自分の中に一つか二つ、あったっていいのではないか。そうやって少しずつ積もっていった大事なものが、何十年後かにふとどこか全く違う生き方に繋がったり、思わぬ人に結びつけてくれるかもしれない。
星野さんはその著書「旅をする木」の一章「アラスカとの出会い」でこう言っている。
「人生はからくりに満ちている。日々の暮らしの中で、無数の人とすれ違いながら、私たちは出会うことがない。その根源的な悲しみは、言い換えれば、人と人が出会う限りない不思議さに通じている。」
星野さんは、アラスカに行くきっかけを作った写真を撮った人物と出会い、そんなことを考えた。・・・自分にとってのその「不思議さ」の一つが、毎年思い出す大事な日であるかもしれないと考えた。少し大袈裟かもしれないけれど。
やっぱり、この8月8日のこの日は、これについて書かずにはいられない。今年も星野道夫さんの命日がやってきた。去年は確か、作家の池澤夏樹さんが書いた『旅をした人』を手に入れる顛末を綴ったように思う。星野さんが亡くなってからもう7年も経ったというのに、書店には未だに新しい本が並んでいる。星野さんの文章を新しくまとめたものや、未発表写真集、第三者から見た星野道夫論などなど、その人気の高さが伺える。今年もそれらの本についてでも書こうかと思ったが、最近いささか食傷気味の感が否めない。
思えば、亡くなってから出版された未発表文の本は結構買ってきたが、写真集は生前彼が、自分の写真を自分で選んだものしか持っていない。別に買うつもりがなかったわけではないのだけれど、気が付けば生前に出版されたものより、亡くなった後に出版されたものの方が多いことに気が付いた。
そのほとんどに目を通しているけれど、「これだけは」と思う写真集はやはり『アラスカ 極北生命の地図』だろう。星野さんの代表的な写真集で、写真家なら誰もが憧れる「木村伊兵衛写真賞」を受賞した作品でもある。図書館で初めて見たときは説明しようのない興奮に鳥肌が立った記憶がある。そこには、アラスカの大地で今も描かれ続けている生命の地図、すなわち、金色に染まった芦原に佇むグリズリーや、もの凄い数の群で季節移動するカリブー、仔を育てるムース、彼方まで続く氷河の原、極北の空を舞うオーロラ、そして人の営み、があった。
13年前に初版が出てから、今もなおそこにある写真の数々は色褪せていない。むしろ、彼が生前よく文章に書いていたように「行くことの出来る自然と、行くことは出来ないが想像できる自然を持つことの素晴らしさ」を今も鮮やかに伝えている。・・・ページを手繰りながら、そこから得たものの大きさと、7年前に失ったものの大きさに、思いを馳せてみる。
星野道夫さんの生前の講演を文章にしてまとめた本「魔法の言葉」を読み終えた。最近星野さん関連の書籍がやたらと出て、一体どうしたことかと少し不思議だったりするけれど、ここにきてまた新しい側面を知ることが出来るのはうれしいことには変わりない。
作家の池澤夏樹さんがまたしてもこの本の解説を書いているが、池澤さん曰く「彼は本当に大事なことしか言わなかった。そして本当に大事なことは何度でも言った」と語っている。その通り。生前のエッセイでもいくつかの本で、同じエピソードを繰り返し語り、またこの「魔法の言葉」でも(毎回聴衆が違うというのもあるけれど)同じエピソードが続く。でもそれは語るべき内容が少ないからではない。きっととてもたくさんのものを見て、たくさんの話しを聞いて、たくさんの人に会ってきたからこそ、人に話すべき本当の話しを知っている、その表れだろう。
日々の生活で、誰かに会って、本当に語って聞かせたい話しが自分の中にあるだろうか。少し考えたけれど、思いつかなかった。
『ブルーベア』を読み終えた。素敵な読了感だった。著者のリン・スクーラーはアラスカのジュノーでボート生活を送りながらガイドを続ける人で、星野さんとはガイドと写真家の関係以上の友情を育んできたことが、本の中で語られていた。星野さんの数多い文の中からは、彼の考えやものの見方を知ることは出来ても、彼が周囲の人々にどれくらい愛され、またどうして愛されてきたのかをすることはなかなか難しい。それをこの本が教えてくれていた。生まれ持った病気との闘いや恋人の不幸な死を経て人間嫌いになった著者は、屈託のない笑顔を振りまき、時にユーモアと飾らない人柄を交えて接してくる星野さんと旅に出掛けるうちに、もう一度人を信頼しようとする。その旅と友情の記録のキーワードになったのが、幻のクマ、ブルーベアとも呼ばれるグレイシャーベアの存在だった。著者と星野さんはいつの日か、一緒にブルーベアを見ようと約束して、アラスカのあちこちに出掛けていくのである。
・・・結局、星野さんはブルーベアに会うことはなかった。その約束を果たす前にロシアのカムチャツカで亡くなっているのである。星野さんの死に、必死で意味を見いだそうとする著者に、彼の友人でありまた星野さんとも友人だった女性が物語の最後に『ナヌークの贈りもの』という星野さんの本をプレゼントする。彼の死を『ブルーベア』という本の中で数万言費やして語ろうとしていた著者は、星野さんが子供のためにと作った本の29枚の写真と五百語余りの言葉で星野さん自身が全てを語っていたことに、意味と理解を見いだしたのではなかっただろか。
著者はその後、ブルーベアを見る。でもそこにいたのは星野さんではなく、心を通い合わせる見込みの全くない二人の人間だった。
こんなはずではなかった、と思った。そして肝心なときに遅刻し、大事なことを忘れてしまうミチオのどこか愛すべき習性に対して、奇妙な、愛情のこもった欲求不満とでも言うべき感情を抱いていたことを思い出して、わたしはあやうく声を出して笑いだすところだった。ミチオ、とうとうブルーベアを見つけたこの肝心なときに、きみはいったいどこにいるんだ?
著者が、ブルーベアを見た感動をどうにかして一緒にいた人間に伝えよう、喜びを共有しようとしたその姿勢、以前なら考えられなかった内面の変化が、この旅は結局二人にとって成功に終わったのだということを示しているのかも知れなかった。
この本が気になる方は、こちらをどうぞ。
>>「ブルーベア」
先日どういうわけか展覧会「星野道夫の宇宙」の招待券2名分のハガキが送られてきて、それじゃあというので、はまげん&しーしゃんを誘って行ってきた。休みの午後に行ったら予想通りかなり混んでいて、夕方に出直したけどもそれでも人越しに写真の数々を見ることになった。もう何年も前から知っている写真、初めて見る写真、そのどれもが星野さんの人となりを感じさせ、彼の肩越しにアラスカの様々な風景を見させてもらっているようだった。そのうちの何枚かは、彼のエッセイにどういう状況で撮ったのかということが語られていて、少し泣きそうになった。
他人が「これはこれこれこういう状況なのかなー」とか「これの動物カワイイねー」とか言うのを聞いて、「そうそう」とか「それはないんじゃない?」とか「そういう受け取り方もあるんだな」と勝手な感想の感想を心の中でつぶやきながら見ていた。クマやオオカミが同じ地球のどこかに生きていると想像できることが、とても不思議でこころを豊かにする、といった感じの星野さんの文が写真のキャプションとして掲げられていたが、それを見たはまげんが「ああ、オレもビッグフットがどこかにいると絶対思うんだよね!」と言って、オレをグンニャリさせ、しーしゃんに「前にもこういうワケのわかんないこと言ったのよー」とため息をつかせていたのを付け加えておきたい(笑) やっぱり一人で見るのもいいけど、たまには友達と見るのもいいもんだと思ったりした。↑のコメントはどーかと思うけど(笑) ・・・そして、写真家星野道夫は未だにこれだけたくさんの人に愛されているんだなあとまた泣きそうになった。
会場の3箇所くらいに、以前放映されたテレビ番組に同行取材をしたときの星野さんの姿や、生前の星野さんの友人達が彼を語ったVTRが放映されていた。出口付近に置かれたVTRには、エッセイや「地球交響曲第三番」にも登場している友人や星野さんの奥さんで直子さんが、2003年になった今、星野さんに思うことを語っていた。・・・もう限界寸前だった。「ああ、直子さん元気そうだ」とか「ビル・フラーさんってもう80超えているのにすごい元気で安心した」とか「ドン・ロスさんはまだブッシュ・パイロットとしてアラスカの空を飛んでいるんだろうか」と会ったこともないのに(直子さんとは同じ追悼会場にいたことはあるけれども)、その元気そうな顔を見ただけで色んな感情が押し寄せて目の際から涙がこぼれそうになり、不自然にあちこちを見回したことを素直に白状したい。
作家の池澤夏樹が「彼を通して知ったアラスカは、彼が亡くなったことによりまた遠い土地になった」ようなことを言っていたけれども、それでも彼が伝えてくれた極北の地は、たくさんの人の中に有り続けるんだと、率直に思った展覧会だった。
昼休みに松屋のわきを通ったら、「展覧会 星野道夫の宇宙」のポスターが貼ってあった。もう大分前になるけれど、彼が亡くなった二年後くらいに同じ松屋で展覧会があった。また、大きく伸ばした写真であの風景、生き物たちが見られるのかと思うと、足取りは知らず小躍りになる。その松屋のすぐそばには教文館という本屋がある。そこの二階に上がったら、「ブルーベア」という新刊が目に入った。著者は友人である星野道夫とともに、幻のブルーベアというクマを探す旅に出た。その旅の前後の彼との友情をつづった回顧録であった。
とても面白そうな本だったけど、手にとって今すぐ買うかどうか迷っていたら、平置きしてある本の脇に手書きのPOPで「ブルーベアをお買いあげの方、先着20名様に、『展覧会 星野道夫の宇宙』招待券差し上げます」の文字が目に飛び込んできた。展覧会のチケットは1200円。本は2400円。迷うはずがなかった。さっさとレジに持っていって買い、招待券も無事もらうことが出来た。
券にはポスターと同じホッキョクグマの写真が入っている。展覧会の名前とか開催日時の他に、コピーが書かれていた。「大切なことは、出発することだった」と。それは星野道夫の書いたエッセイのどこかに書かれていた言葉だった。色々準備も検討もしなければいけないかもしれない、でも大切なことは、まず出発してみることだ。それから先はそのあと考えればいい。そんなような話しだった気がする。アラスカに20歳の夏に初めて行ったときの思いを込めた言葉だったか。思い出せない。
そう、本当に、大切なことは、とにかく先に行ってみることだ。それが出来なくなってから一体どれくらい経つだろう。もう、迷っているときでは無いはずなのに。
それはそうと、仕事場に戻ってから、バイトの女の子に「本買ったらタダでもらえたんだよ!」と自慢したら、「私は友達が松屋で働いてるから、タダでもらえるんですよ〜」と言われてしまった。ちぇっ。
月曜は予想通り忙しかった。やってもやってもゴールが見えない仕事は疲れが増す。その終わりの見えない仕事の最中、35ミリフィルムを切ってたら、見覚えのある蒼い海と島影の写った写真が何本か混ざっていた。そう、小笠原だった。
それを見た時なぜだか心の底から笑いたくなった。肩の力が抜けた。それの写真はもちろん数日前に撮られたものだろうけど、フィルムの前でイライラしながら仕事に追われてる自分に流れている時間と、そこの写っているイルカやクジラ、蒼い海にも、今この瞬間に同じ時間が流れているんだと思うと、なんだか可笑しくて、うれしくて、少し幸せな気分だった。すぐに行って見ることは出来なくても、彼らや、その土地のことを想像できる幸せ。
写真家の故星野道夫さんは中学の時、通学の電車の中でよく、全然行ったこともないのに北海道のヒグマのことを想像したという。今こうやって電車に揺られているときに、北海道のどこかでクマが生きている、という・・・。自分とクマの間に等しく流れる時間の不思議さ。自分には、そこまでの想像力はないかもしれないから、あの海の蒼さや、イルカの優雅さや、クジラの巨大さを、記憶の中にある経験の力を借りて想像する。そんなことを思ってみたら、心が少しだけ緩くなった気がした。
・・・最後に行ってから4年半くらいか。小笠原は随分遠いところになってしまった。でも、心の中ではまた少しだけ、近くなったかもしれなかった。
今日本屋に行ったら、TBSブリタニカから
星野道夫の新しい写真集『星の物語』が出ていた。
今月から来月にかけてさらに『風の物語』と『愛の物語』が続けて出るらしい。
彼の死後、こうした未公開写真を元にした写真集がいくつか出ているけど、
今回出た『星の物語』、ぱらぱらっとめくった感じでは、
写真そのものは相変わらずとてもいい。
星野道夫がそこにいて撮った、その空気が感じられるいい写真ばかりだ。
でも、その写真を選んだのが奥さんの直子さんなのか、
はたまたTBSブリタニカの編集者なのかはわからないけど、
本の構成がその辺の凡百の写真集とあまりかわらない。
最後のページまで見終わった瞬間思った、
「これはあまりいい本ではないな」というのが正直な感想だった。
何故か。
一番の理由は撮影者の星野道夫本人が選んだ写真群ではないから。
北極圏のアザラシの愛くるしい姿と、ホッキョクグマの悠然とした姿が、
本の大半を占めているのだが、
同じような構図の写真が続いているページがかなり多い。
たぶん今まで本人が選んで作った写真集では、
あんなに動物のアップばかりを集めたりはしない。
彼が「動物写真家」ではなく、「アラスカ写真家」と言われる理由は、
動物の写真だけを撮っていたのでなく、アラスカというテーマ、
一つのフィールドに心底魅せられて取り組んでいたからだ。
動物のアップだけでなく、例えば「パッと見には広大な風景の写真」
を撮ったものでも、よく見ると手前の湖にムースがいて水を飲んでいる。
その全体の空気を、アラスカという自然そのものが内包する
山や、木や、動物を、すべて切り取った引いた写真がとても多く、
かつアップの写真と同じかそれ以上の魅力を放っていた。
アラスカのどんなかけらでも集めようと、
人跡未踏の大地に何週間もキャンプを張ったり、
失われつつある神話を求めて奥地の村の語り部に会いに行ったり、
旅人であることさえやめてアラスカに定住し、
そこから見えてくるものを日本に住んでいる人たちに伝えてくれた。
だからなのだろうか。
今日見た写真集は、アザラシやクマがアップになった写真がとても多く、
以前同じ北極圏を扱った写真集「アークティック・オデッセイ」に見られた、
凍てつく大地で暮らすクマが吐き出す白い息に感じられた体内の生命のたくましさや、
向こうまで続く足跡に思い知らされた広大な氷の世界の広がりが、
あまり感じられなかったのが、とても残念だった。
でも、たぶん、それでも喜んでこの写真集をさらに見たいと思うだろう。
それは、星野道夫がアラスカのかけらを夢中になって集めていたのと少し似て、
我々が星野道夫の新作を見られないけれども、
なんとかして彼のかけらを少しでも多く手元に置きたいと思う、
至極当たり前の感情なのだから。
星野さんが亡くなってから、友人で作家の池澤夏樹さんが書いた、
「旅をした人 星野道夫の生と死」を、買おうと思った。
大分前に出ていたのだが、何故だか読むのを先延ばしにしていたのだ。
でも、思い直した。
そろそろ読んでみよう、
7年前のあの日に感じた何かがわかるかもしれない、と。
いつも行く銀座の本屋には、4日前までは確かに本棚に並んでいたのに、
今日行ったらなくて、銀座のはじからはじまで歩いて、最後にやっと見つけた。
汗だくになって手に取った本は、売れなかったのか、少し汚れていた。
・・・最初にこの本屋に来ようと思ったけど、どういうつもりか後回しだった。
でも結局本はここにしかなかった。
遠回りして、最後に正しいところに来る。
なんだか自分の行く末を暗示してるんじゃあないかと思ってちょっと可笑しかった。
今、大分途方もない遠回りをしてはいるけど。
最後に着くところは全く見えないけど。
そう考えたら、ちょっとの本の汚れなど気にならなくなった。
本は、買うことにした。