2006年09月16日

ただのいぬ。プロジェクト Vol.2 Do you have home? 展

doyouhavehome.jpg去年開催された「ただのいぬ。展」が今年も開催されるというので、見に行ってきたのだ。

ただのいぬ。プロジェクト Vol.2 Do you have home? 展」と銘打たれた今回の展覧会は、名前が示すように、「あなたに家はありますか?」という問いかけから始まる。日本で飼われている犬は約1300万頭。だけれども、その陰に隠れて年間数万頭が「処分」されている現実。

「あなたに家はありますか?」 人のそばで生きる犬たちの答えは、必ずしも「Yes」ではない。展示の始めは、その問いかけへの答え。写真とともに飼い主のコメントが並んでいる。一枚目「Yes」。二枚目「Yes」。三枚目「No」。

「Yes」のパネルに書かれた、その犬と飼い主のたくさん情報とは全く逆の、写真と、「No」という答えと、「Tadanoinu」という名前ですらない文字と、それ以外を埋める真っ白なスペース。去年の展示を見ているだけに、その真っ白なスペースの意味するところを想像して、三枚目でもうこみ上げてくるものがある。

でも希望がないわけではない。答えは「Yes」と「No」の他にも用意されている。まだ、本当の家はないけれど、これからできるかもしれない、という希望。つまり「Not yet」。処分待ちの犬を動物愛護団体の「預かりボランティア」という制度で、最適な飼い主が現れるまで面倒を見る。

展示の後半は、例の悲しいとしか言いようのない「不運」の行く末と、その逆に新たに家の出来た犬たちの「幸運」の対比。「預かりボランティア」で引き取られて、新しい家族の元にたどり着くまでの一部始終がとても印象的だった。

「Yes」と「No」、「幸運」と「不運」の、それぞれの犬たちの、同じように愛らしい姿。なのに、瞳が物語る感情の違いがとても胸に刺さる。はせがわさんが、預かりボランティアに引き取られ、新しい家族に引き渡される一頭の犬の写真群を見ながら、「どんどん目が変わっていくのがわかるんだよね」と言っていたのもうなずける。彼らも本当に目の輝きが違うのだ。

さて、ここから得られるメッセージというのは人それぞれなので、ぜひ会場に足を運んで欲しい。

投稿者 いづやん : 23:32 | コメント (0) | トラックバック

2006年02月24日

観察する力

shasin_kansatu.jpg仕事でちょっとした文章を読む機会があって、それがなかなか面白く、考えさせられるものだった。うちの会社はプライバシーマークを取得しているのであまりその内容をつぶさには語れないけれど、以前から話題になっているとある動物園の元飼育係の人のインタビュー記事。

そこには「今もっとも衰えているのは『観察する力』じゃないか」という話が出ていてギクリとさせられた。「鑑賞はできるが、観察ができない。観察する力がもてないと、クリエイティブな力というのは絶対でない」 さらに続けて「今は記録しすぎだと思う。とにかくカメラでやたら撮る。(中略)見た、参加したという確証のためには、カメラで写さないと不安なのか。それでは記憶する力が衰えてしまう。だから絵を描く力も衰えてしまう」とあった。前後はもっともっと長くて面白いのだけれど、ここの下りはとても身につまされた。

最近色んなイベントに行っても、カメラで記録することばかりに神経を使っていないか。そこにある「空気や匂い」はカメラでは写せないのに、写真にばかり気を取られていないか。そう考えると、結構「あれ、昨日は何したっけ? 何を見たっけ?」と思うことが多々ある。つまり、「見てはいる」けれど「見えていない」のだ。

最近写真が下手くそになってきたのには、撮る行為だけに満足してしまって、観察することをおろそかにしてしまっているのもあるかも知れない。今年は、撮る前に見ろ、を合い言葉にしたいね。

投稿者 いづやん : 23:10 | コメント (8) | トラックバック

2006年01月12日

グッバイ、フィルム

f6.jpgアップルのIntel Macは予定調和な感があってサプライズに乏しかったのだけれど、今朝見たこのニュースには正直本当に驚いた。

「ニコン、銀塩カメラ事業を大幅縮小」・・・えっ、天下のニコンが?! 何かの間違いかと思ったけれど、本当らしい。「ニコンは、銀塩カメラ事業の大幅縮小に踏み切る。フラッグシップ機「F6」など一部のボディとレンズを除き生産を終了する。銀塩カメラ市場は急速に縮小しており、経営資源をデジタルカメラ事業に集中する」

マージデスカー? キヤノンとともに、日本の、いや世界のカメラ業界をリードしてきたニコンがフィルムカメラをやめる?! 自分は根っからのキヤノンユーザーだけれど、写真業界にそれなりの期間いた人間として、これは本当に一大事だと思う。今頃ラボとか、スタジオとか、プロカメラマンとか、大騒ぎしているんじゃないかなあ。

それと同時に、やっぱりフィルムからデジタルへの移行は否応なく進んでいるというのを実感できる出来事だ。それはラボで働いていた時から感じてはいたけれど、こうして大きなターニングポイントが思ったよりも早く来たことには、正直驚いている。

この決断から、あらゆる写真表現全般がどう変わっていくのか、とても気になるのだ。

投稿者 いづやん : 22:17 | コメント (0) | トラックバック

2005年09月24日

ただのいぬ。展

tada_no_inu.jpgそういえば先日、「北極星から十七つ先」を見に三軒茶屋のシアタートラムに行った時に、「ここってもしかしてはせがわさんの職場が運営しているのかも?」と思ったのだ。そうしたらその三日後くらいに「写真展を企画しました」というメールをはせがわさんからいただいて、やっぱりシアタートラムは、はせがさわさんの職場である「世田谷文化生活情報センター 生活工房 」(それともせたがや文化財団?)が運営しているそうな。そういうつながりが本当に面白いと感じる今日この頃。最近色んな人に会っておきたい!と思う原動力になっている。

さて、今三軒茶屋キャロットタワーの4階では「ただのいぬ。展」が開催されている。はせがわさんの職場が企画・主催している写真展で、はせがわさんのメールには「自分が今の職場で企画した展覧会の中では、最高の出来です」とあった。そんなこと言われたら、写真好きとして行かないわけにはいかない。渋谷での用事を済ませた午後6時過ぎに、会場へ向かった。

「ただのいぬ。展」の、「ただのいぬ」とは「只のいぬ」であり、「無料のいぬ」ということ。パンフレットには、「これは、飼い主から捨てられたり、迷子になって保健所などに保護、収容された犬たちの物語です。犬たちの行き先は、全国の動物愛護センターと呼ばれる施設。彼らの運命は、暗闇と光の二つの道に分かれています。でも、どちらへ行くか『ただのいぬ』には決められません」とある。

どちらへ行くかは、決められない。

そう、いぬたちには選択権はない。人間が全て握っている。会場に入ると、施設に預けられたいぬたちの姿がモノクロ写真で目に入ってくる。柵の向こうだったり、草の上だったり、子犬どうしで折り重なったり。キャプションとして添えられた詩が、見る人に単に「カワイイね」だけで終わらない何かを伝えている。写真だけでも伝わらない、詩だけでも伝わらない、それを相互に補完しているような、そんな奥行きがあった。それはなんでもないいぬたちの日常かもしれないし、この先の運命をほのめかすものかも知れない。見る人に想像を喚起する補い方。

先に進むと「光の部屋」と「暗闇の部屋」とそれぞれ指し示された部屋への分かれ道に来る。ここはぜひとも、「暗闇の部屋」から見て欲しいと思う。引き取り手のなかった犬は、致死処分される。その運命の一部。今までは透明なアクリルに入れられて掲示されていたキャプションが、何かを暗示するように錆びた鉄の額に代わって掲げられている。

キャプションにはそっけない文字がいくつか続く・・・8:55。9:03。9:05。ドリームボックス。13:48。そして、何も無い、真っ白なキャプションが続く。写真は、ぜひ自分の目で確かめて欲しい。これが現実だという重さ。真っ白なキャプションが二つならんだ最後の意味するところ。

続いて「光の部屋」へ。ここは幸運にも引き取り手の現れた犬と飼い主の写真が掲げられている。「暗闇の部屋」で我慢していた何かがカチッと音を立てて、涙腺のスイッチを押す。この明るい部屋には、先ほどの暗い部屋よりもすすり泣きの声があちこちから聞こえる。飼い主たちのうれしそうな顔と、安らいだ犬たちのたたずまい。それが先ほどまでの暗い運命とあまりにも対比をなしていて、あるいは眩しすぎて、涙が出るのだろうか。

簡単に「動物愛護」と叫ぶのは簡単かも知れない。だけれど、この写真展から得られるものはそんな単純なことではない気がする。はせがわさんも「社会的なこととしてではなく、ぜひ自分のこととして感じてほしい」と言っていたのが印象的だった。

残念なことに、会期が明日、25日までなのだ。台風が来ようが、ぜひとも足を運んで欲しいと強く思う展覧会だ。だけれど、色々今後の話しの広がりもあるようで、それにも期待したい。

最後に、上の写真とともに掲げられていた詩がとても心に刺さったので、紹介したいと思う。著作権とかに引っかかるようなら言ってください。


 ふまれた草がいいました
 痛いとか
 悲しいとか
 みじめなのではなく

 ふまれなかった草と
 何がちがうのか
 それだけは
 教えてほしいと


・・・それが「運」でしかなかったと言ってしまうには、あまりにも悲しすぎる。

投稿者 いづやん : 21:30 | コメント (12) | トラックバック

2005年02月28日

ワイルドライフ写真大賞展

shironagasu_kujira.jpg「ワイルドライフ写真大賞」というのを知っているだろうか。ロンドン自然史博物館とBBCワイルドライフマガジン誌による、プロ・アマを問わない世界最大の自然・生物を対象にした写真コンテストなのだ。

その受賞・入選作品の展示「ワイルドライフ写真大賞展2004」が上野の国立科学博物館であった。この日曜が最終日だったのでとにかく行ってみようと思い立った。行ってみたら、天気が良いせいか、上野駅の公園口は大賑わい。久しぶりに来た科学博物館前のシロナガスクジラの像が、いつ見てもでかくてすごい。死ぬまでに一度生で見てみたいものだ。

wild_life_photo.jpgさて、会場の中には世界52カ国、1万8500点の作品の応募から選ばれた50作品くらいだろうか、が展示されていた。どれも確かに思わず唸る良い作品ばかり。大賞は南アフリカ喜望峰沖のイワシの大群に突進する二頭のクロヘリメジロザメを捉えた写真。今まさに口いっぱいに捉えたイワシがこぼれ落ちそうで、なおかつ撮影者にぶつかりそうな距離にサメがいて迫力満点。・・・というか、イワシを補食するのに夢中で何度も撮影者にぶつかったんだそうだ。コワイ・・・。

大賞も見事な写真だったが、一番心を惹かれたのが、「キンイロジャッカル、コフラミンゴを追う」という題の写真。湖の泥の浅瀬を頭を低くしてフラミンゴを狙うキンイロジャッカル。前景と背景にはアウトフォーカスのフラミンゴが配置されている。このジャッカルが泥まみれで、しかし獲物への執念というかがその低く下げた頭と視線、蹴り出した後足に力強さが感じられて、ただ綺麗な野生動物の写真よりも一段上の美しさがあるなあ、とすごく心を動かされた。

makkou_kokkakujpg.jpg会場だった科学博物館は、閉館1時間前だったのだけど、折角チケットを買ったので少し見ていくことにした。去年の11月に新館がオープンして、行ってみたいなあと思っていた。ちなみに今本館は工事中。・・・中に入っていくと、これがすごいのだ! 一階部分は「地球の多様な生き物たち」というテーマに沿って、「多くの種に分かれて進化した生き物たちが、様々な環境に適応し、独自の形態や生活様式を持ちながらお互いに深くかかわりあって生きている姿を紹介します」というコンセプトで、色んな生き物の模型や標本があちこちに綺麗に展示されている。頭上を見ると巨大なマッコウクジラの骨格標本がぶら下がっていたり、見たこともない魚の模型が整然と並べられていたり。

圧巻なのは、奥にある「系統広場」というホール。ここは楕円形のホールを囲むようにガラスの背の高いボードが取り囲んでいて、その中に「動物界」「植物界」という生物を大きく二分した系統から、さらにどのように分かれているのかが、標本や模型、イラストなどを立体的に配して見せているのだ。こちらに菌類があるかと思えば、向こうの橋にはクマがいたり、簡単な植物があるかと思えば、たくさんの被子植物の押し花風の展示もある。頭の上にはミンククジラの骨格があると思えば、ラブカの模型が浮かんでたりする。このホールだけでもずいぶん楽しめるのだけれど、この新館、地上3階、地下3階の規模。1日かけて全部見られるかどうか。

ともかく、写真展目当てに来た国立科学博物館。ある種の人たち、そしてサメの人たちならなおさら、ディズニーランドよりもずっと楽しめること請け合い、なはずである。・・・また近いうちに行こうっと。420円であれだけのものを見られるんだから安いよ、ホント。本館が復活したらどうなるんだろう。すごいことになりそうだなあ。

投稿者 いづやん : 23:35 | コメント (7) | トラックバック

2004年07月24日

足りないもの

hutou_no_umi.jpg今年も海の日キャンプは楽しかった。少しくらいの天気不順でもどうってことない。

浮島の海は毎年楽しいのだけれど、いつも何か物足りないなあと感じていた。でも何かは分からない。

例えば、りりやんやのぶは浮島の海で色んな獲物を狙うだろう。今回来たオレの友達の秋本のように単に海中の世界に魅せられている人もいる。まかべさんのように、磯の小さい生き物を探す楽しみもあるかもしれない。実は海なんてどうでもよくてビールが飲めればそれでいいという人もいるかもしれない。

でもオレには何かが足りなかった。そう、「穫る」行為ではなく、「撮る」行為がなかったのだ。海の中も写真に撮れれば、面白さも、自分なりの浮島の海の遊び方も広がってくる。どうしてこんなことに気が付かなかったのだろう? そういえば、今使っているIXY Digital 200は、オプションのオールウェザーケースが水深2メートルくらいしか使えなくて買うのを断念したことがあった。

次のデジカメは水中用のケースがオプションで用意されているものにしよう。やっぱり「海の日キャンプ」というからには、海の中の写真がないとちょっと物足りないと思わないだろうか? 写真を撮ることに夢中になれば、「寒い」とヘタれてすぐ海から上がってしまうこともなくなるかもしれないし。水中でのアホ写真も載せられるだろう。

そうはいっても、毎年浮島の海は楽しい。さて、ギャラリーの用意もしなければなあ・・・。

投稿者 いづやん : 02:56 | コメント (0) | トラックバック

2003年10月29日

作為と作品

sakui_to_sakuhin.jpg
部屋に帰って来た後の夜中にNHKを見ていたら、動物写真家の嶋田忠さんの番組についての紹介が流れていた。嶋田さんといえば、写真集『アカショウビ ン』が非常に有名だ。全身が赤褐色で、その長いクチバシも真っ赤な印象的な鳥。その神秘的ないでたちのアカショウビンをダイナミックなアングルで捉えた 写真の数々は、初めて見たときは純粋に驚いたものだ。

特にアカショウビンが水中にいる魚を捕らえる様を水中から捉えた写真群は「いったいどうやったらこんなシャッターチャンスに恵まれるのだろう?」と首を ひねったものだった。だが、その写真を初めて見てから何年か経ったある日、本当のことを知ることになる。その写真は川の一部を囲って魚を放し、水中にカ メラを仕込んで待ち、アカショウビンが狩りをするよう作られた空間で生み出されたものだと。

そして今、NHKで流れている番組の紹介の中でも、カワセミを撮るのに、川底を掘って石で周りを囲み、水中にカメラを仕掛け、小魚を入れた仕掛けを得意 げに話す嶋田さんの顔がある。

おそらく、その鳥について非常に観察を繰り返し、長年の経験とカンを持ってしなければモノにできない写真だろう。だが、自然写真にそこまでの用意をして 撮る必要があるのだろうかと、疑問を感じた。動物の自然の営みを動物たちに気付かれないように撮るのが本来の目的なのではないのか。「ここはいったいど うなっているのだろう」と好奇心を働かせることによって、さらなる探求や工夫が生まれることには違いないが、だからと言って「自然の営み」を目撃するの にそこに作為を仕込むことは、すでに「自然の営み」ではないのではないか。確かに鳥にしてみれば、そこは単に囲われて魚がたくさんいる絶好の穴場、なの だろうが。

そうはいってもTVで目にするそういった番組のいくつかは、普段絶対に見ることのできない自然や生き物の活動をカメラにおさめるために、何がしかの演 出・工夫がなされているであろうことは想像に難くない。でも番組を見るものにとって、そういったことは知らなければそれにこしたことはない。川底に穴を 掘ったそばで「こう撮りました!」と言われて「それはスゴイ」と簡単に感心するのは、最近撮影地に多いゴミを平気で捨てる人間とどこかで似通っている。 知らなければそうはしないだろうに、知ってしまったからには自分もああやって生息地の環境に手を加えて傑作写真をモノにするぞという安易な連中が出てく ることを、番組制作者や写真家は想像できないのだろうか。

それに、なんでもかんでも記録に残さなくっても、少しくらい人間の与り知らない世界があったっていいではないか。なんでも分かってしまったら、それはそれでツマラナイ世界だと思うのだが、いかがなものだろうか。

投稿者 いづやん : 02:39 | コメント (0) | トラックバック

2003年08月08日

今年もこの日が

kotosi_mo_konohiga.jpg
やっぱり、この8月8日のこの日は、これについて書かずにはいられない。今年も星野道夫さんの命日がやってきた。去年は確か、作家の池澤夏樹さんが書いた『旅をした人』を手に入れる顛末を綴ったように思う。星野さんが亡くなってからもう7年も経ったというのに、書店には未だに新しい本が並んでいる。星野さんの文章を新しくまとめたものや、未発表写真集、第三者から見た星野道夫論などなど、その人気の高さが伺える。今年もそれらの本についてでも書こうかと思ったが、最近いささか食傷気味の感が否めない。

思えば、亡くなってから出版された未発表文の本は結構買ってきたが、写真集は生前彼が、自分の写真を自分で選んだものしか持っていない。別に買うつもりがなかったわけではないのだけれど、気が付けば生前に出版されたものより、亡くなった後に出版されたものの方が多いことに気が付いた。

そのほとんどに目を通しているけれど、「これだけは」と思う写真集はやはり『アラスカ 極北生命の地図』だろう。星野さんの代表的な写真集で、写真家なら誰もが憧れる「木村伊兵衛写真賞」を受賞した作品でもある。図書館で初めて見たときは説明しようのない興奮に鳥肌が立った記憶がある。そこには、アラスカの大地で今も描かれ続けている生命の地図、すなわち、金色に染まった芦原に佇むグリズリーや、もの凄い数の群で季節移動するカリブー、仔を育てるムース、彼方まで続く氷河の原、極北の空を舞うオーロラ、そして人の営み、があった。

13年前に初版が出てから、今もなおそこにある写真の数々は色褪せていない。むしろ、彼が生前よく文章に書いていたように「行くことの出来る自然と、行くことは出来ないが想像できる自然を持つことの素晴らしさ」を今も鮮やかに伝えている。・・・ページを手繰りながら、そこから得たものの大きさと、7年前に失ったものの大きさに、思いを馳せてみる。

投稿者 いづやん : 09:57 | コメント (0) | トラックバック

2003年06月11日

良い写真とは

yoi_shashin_toha.jpg
土曜のチャットできょうけんと話しをしていたとき、「どんな写真が一体良い写真なのか」という話題が出た。もちろん、人それぞれ捉え方が違うので一概には言えないけれども、オレに写真を教えてくれた人(師匠と呼んでしまうにはあまりにもおこがましい今の我がていたらく)が、「物語を感じることの出来る写真」と言っていたのを思い出した。例えばある写真を見て「あ〜、これが写ってるね」と思って終わり、なのはあまり出来た写真ではない、ということだ。「これはこういうことなのかな」とか「これはここからどうなっていくんだろう」といった、画面の外や流れていく時間に自然と思いを馳せられるものが良い、というわけだ。

そう考えると、風景写真、というのは実はとても難しかったりする。一枚の風景で人をうならせるのは「見る目」と「撮る術」の両方に高い技量が必要なんだと今さらながら痛感したりする。人物やスナップ写真が簡単とはいわないけれど、対象に動きを作りやすい分、物語を持たせやすいのかも知れない。それにしてもこのサイト、そんなスナップを載せているけれども、どうにも「物語のある」写真が少ない。これからはもっと考えてシャッターを切りたいもの。

・・・それはそうと、この話しをきょうけんにしたら、「なるほど、ようするに写真を見て、妄想するか、しないか、の違いね」と言われた・・・いや、そうかもしれないけど、違うような気も・・・(笑)

投稿者 いづやん : 02:08 | コメント (0) | トラックバック

2003年04月29日

星野道夫の宇宙

michio_no_uchu.jpg
先日どういうわけか展覧会「星野道夫の宇宙」の招待券2名分のハガキが送られてきて、それじゃあというので、はまげん&しーしゃんを誘って行ってきた。休みの午後に行ったら予想通りかなり混んでいて、夕方に出直したけどもそれでも人越しに写真の数々を見ることになった。もう何年も前から知っている写真、初めて見る写真、そのどれもが星野さんの人となりを感じさせ、彼の肩越しにアラスカの様々な風景を見させてもらっているようだった。そのうちの何枚かは、彼のエッセイにどういう状況で撮ったのかということが語られていて、少し泣きそうになった。

他人が「これはこれこれこういう状況なのかなー」とか「これの動物カワイイねー」とか言うのを聞いて、「そうそう」とか「それはないんじゃない?」とか「そういう受け取り方もあるんだな」と勝手な感想の感想を心の中でつぶやきながら見ていた。クマやオオカミが同じ地球のどこかに生きていると想像できることが、とても不思議でこころを豊かにする、といった感じの星野さんの文が写真のキャプションとして掲げられていたが、それを見たはまげんが「ああ、オレもビッグフットがどこかにいると絶対思うんだよね!」と言って、オレをグンニャリさせ、しーしゃんに「前にもこういうワケのわかんないこと言ったのよー」とため息をつかせていたのを付け加えておきたい(笑) やっぱり一人で見るのもいいけど、たまには友達と見るのもいいもんだと思ったりした。↑のコメントはどーかと思うけど(笑) ・・・そして、写真家星野道夫は未だにこれだけたくさんの人に愛されているんだなあとまた泣きそうになった。

会場の3箇所くらいに、以前放映されたテレビ番組に同行取材をしたときの星野さんの姿や、生前の星野さんの友人達が彼を語ったVTRが放映されていた。出口付近に置かれたVTRには、エッセイや「地球交響曲第三番」にも登場している友人や星野さんの奥さんで直子さんが、2003年になった今、星野さんに思うことを語っていた。・・・もう限界寸前だった。「ああ、直子さん元気そうだ」とか「ビル・フラーさんってもう80超えているのにすごい元気で安心した」とか「ドン・ロスさんはまだブッシュ・パイロットとしてアラスカの空を飛んでいるんだろうか」と会ったこともないのに(直子さんとは同じ追悼会場にいたことはあるけれども)、その元気そうな顔を見ただけで色んな感情が押し寄せて目の際から涙がこぼれそうになり、不自然にあちこちを見回したことを素直に白状したい。

作家の池澤夏樹が「彼を通して知ったアラスカは、彼が亡くなったことによりまた遠い土地になった」ようなことを言っていたけれども、それでも彼が伝えてくれた極北の地は、たくさんの人の中に有り続けるんだと、率直に思った展覧会だった。

投稿者 いづやん : 23:59 | コメント (0) | トラックバック

2003年03月30日

もうこんなに

kawaguti_jinnja_sakura.jpg
近所の川口神社の桜が、もうこんなに咲いていた。最近は一眼レフのカメラで何かを撮ろうと出かけることがめっきりなくなったけど、この季節だけは無性にカメラと三脚を持って出かけたくなる。やっぱりオレも日本人だったんだなと、当たり前のことを考えてみる。それにしても、携帯カメラは当然のようにあまり綺麗には撮れなかった。普通のカメラでも桜を被写体にして、その美しさをしっかり写すのは、実は難しい。毎年、撮影中の高揚感と、現像後の落胆の差が激しい。それでも撮りたいと思わせる桜の魅力。さて、今年はどこに行こうか。

投稿者 いづやん : 16:54 | コメント (0) | トラックバック

2003年03月26日

蒼い海を想う

月曜は予想通り忙しかった。やってもやってもゴールが見えない仕事は疲れが増す。その終わりの見えない仕事の最中、35ミリフィルムを切ってたら、見覚えのある蒼い海と島影の写った写真が何本か混ざっていた。そう、小笠原だった。

それを見た時なぜだか心の底から笑いたくなった。肩の力が抜けた。それの写真はもちろん数日前に撮られたものだろうけど、フィルムの前でイライラしながら仕事に追われてる自分に流れている時間と、そこの写っているイルカやクジラ、蒼い海にも、今この瞬間に同じ時間が流れているんだと思うと、なんだか可笑しくて、うれしくて、少し幸せな気分だった。すぐに行って見ることは出来なくても、彼らや、その土地のことを想像できる幸せ。

写真家の故星野道夫さんは中学の時、通学の電車の中でよく、全然行ったこともないのに北海道のヒグマのことを想像したという。今こうやって電車に揺られているときに、北海道のどこかでクマが生きている、という・・・。自分とクマの間に等しく流れる時間の不思議さ。自分には、そこまでの想像力はないかもしれないから、あの海の蒼さや、イルカの優雅さや、クジラの巨大さを、記憶の中にある経験の力を借りて想像する。そんなことを思ってみたら、心が少しだけ緩くなった気がした。

・・・最後に行ってから4年半くらいか。小笠原は随分遠いところになってしまった。でも、心の中ではまた少しだけ、近くなったかもしれなかった。

投稿者 いづやん : 02:37 | コメント (0) | トラックバック

2002年03月17日

桜が

もう桜が咲き始めてるねえ。
ぼちぼちカメラの手入れをするかなー。

投稿者 いづやん : 14:55 | コメント (0) | トラックバック