2003年10月29日

作為と作品

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部屋に帰って来た後の夜中にNHKを見ていたら、動物写真家の嶋田忠さんの番組についての紹介が流れていた。嶋田さんといえば、写真集『アカショウビ ン』が非常に有名だ。全身が赤褐色で、その長いクチバシも真っ赤な印象的な鳥。その神秘的ないでたちのアカショウビンをダイナミックなアングルで捉えた 写真の数々は、初めて見たときは純粋に驚いたものだ。

特にアカショウビンが水中にいる魚を捕らえる様を水中から捉えた写真群は「いったいどうやったらこんなシャッターチャンスに恵まれるのだろう?」と首を ひねったものだった。だが、その写真を初めて見てから何年か経ったある日、本当のことを知ることになる。その写真は川の一部を囲って魚を放し、水中にカ メラを仕込んで待ち、アカショウビンが狩りをするよう作られた空間で生み出されたものだと。

そして今、NHKで流れている番組の紹介の中でも、カワセミを撮るのに、川底を掘って石で周りを囲み、水中にカメラを仕掛け、小魚を入れた仕掛けを得意 げに話す嶋田さんの顔がある。

おそらく、その鳥について非常に観察を繰り返し、長年の経験とカンを持ってしなければモノにできない写真だろう。だが、自然写真にそこまでの用意をして 撮る必要があるのだろうかと、疑問を感じた。動物の自然の営みを動物たちに気付かれないように撮るのが本来の目的なのではないのか。「ここはいったいど うなっているのだろう」と好奇心を働かせることによって、さらなる探求や工夫が生まれることには違いないが、だからと言って「自然の営み」を目撃するの にそこに作為を仕込むことは、すでに「自然の営み」ではないのではないか。確かに鳥にしてみれば、そこは単に囲われて魚がたくさんいる絶好の穴場、なの だろうが。

そうはいってもTVで目にするそういった番組のいくつかは、普段絶対に見ることのできない自然や生き物の活動をカメラにおさめるために、何がしかの演 出・工夫がなされているであろうことは想像に難くない。でも番組を見るものにとって、そういったことは知らなければそれにこしたことはない。川底に穴を 掘ったそばで「こう撮りました!」と言われて「それはスゴイ」と簡単に感心するのは、最近撮影地に多いゴミを平気で捨てる人間とどこかで似通っている。 知らなければそうはしないだろうに、知ってしまったからには自分もああやって生息地の環境に手を加えて傑作写真をモノにするぞという安易な連中が出てく ることを、番組制作者や写真家は想像できないのだろうか。

それに、なんでもかんでも記録に残さなくっても、少しくらい人間の与り知らない世界があったっていいではないか。なんでも分かってしまったら、それはそれでツマラナイ世界だと思うのだが、いかがなものだろうか。

投稿者 いづやん : 2003年10月29日 02:39 | トラックバック
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