【もう一人の】


 誠二(せいじ)…。
 …誠ちゃん?
 今日のお薬、もう飲んだ?
 ああそう…それじゃ、お祝いに姉さんとケーキを頂きましょ。
 じきに7月よ…この嫌な梅雨が明けたら貴方のお誕生日も近いわ。

 セージ… 実弟の誠二(せいじ)。
 誰より可愛い、本当の弟。
 親が共働きで子供だけで過ごす時間が多かったわたし達。
 うん、もう1人のセージ…お隣の青治(せいじ)くんも一緒にいてくれたわね。
 わたし達、みんな揃って(誠二だけは男子校の進学校を経由したけれど)同じ大学で、同じテーマに取り組んで、研究してたよね。
 …青治くんも私の二人目の弟みたいに可愛がったわ。
 でも今の彼はもう遠い彼方へ行ってしまった。
 幼なじみのよしみで心配ごっこしてあげる、わたしもわたしだけど、ストーカーじみてるのは気になる。

 だけれどね、誠二。
 わたしは誰よりあなたの事を………。

 ふと、目の奥から込み上げるものがあった。
『rico? どうしたんだよ、途中だぜ』
『ん…うん、ごめんっ。
 ともかく、貴方の病気、快方に向かっててホントに良かっ…』
 誠二が身を乗り出して、私の唇についていたクリームをぺろりと舐め上げた。
『これが、俺の病気?』
 誠二は悪戯っぽく笑って言う。
『…っ、違うの、わたし達は真剣に愛し合っているっ! そんなんじゃなくて…』
『ごめんよ、よく覚えてないけど、虫がどうとか言ったり、家で暴れて困らせたって…』
『ううん、そんな事もどうだっていいの、わたしは、ただ貴方が戻ってきてくれた事が嬉しくて…』
『青治(セージ)はどうしたって? 俺が休んでるうちに退学したって聞いたけど』
『そんな話、やめましょう』
『ハハ、振っちゃったの?
 あいつも男なんだからさ、姉さん好きだったと思ってたけど。
 実際、ガキの頃から意識してたんじゃね?
 姉さんがいる時は、結構俺と張り合おうとしてたもん』
『そんなの…どうだっていいの!
 わたしがただ1人好きなのは貴方だけ!
 それにセージは、もうあの頃のセージじゃない…おかしくなったの。
 今も山にこもって冒涜的な…おぞましい生活をしてる』
『…ゴメン、姉さ…いやrico。
 今日、俺の退院祝いなのにな』
 嫌な出来事を思い出したわたしは、ついつい暗い顔をしてたみたいだった。
 ごめんね…誠ちゃん。

 それからわたし達は、当たり前のように恋人同士の時間を過ごす。
 薬は飲んでても、ひ弱なセージのそれとは違って、誠ちゃんの腕は私の不安までしっかり抱き留めてくれた。
 全身でセージのおぞましさなんか、忘れさせてくれた。

 でも。
 その翌朝の郵便受けには、彼の繊細な字体で書かれた青い封筒が入ってた。

 わたしはまた、泣きたい気持ちを抑えて、それを破り捨てようとした。
 でも、中にあったのはほんのカード一枚だった。
 短い言葉は嫌でも目に入った。

『気持ちのいい風だよ』
『いいよ、僕はもっとここにいたい』
『湿気を切り捨てるみたいに、蒸し暑さが涼しさに変わる夕立って好きなんだ。
 そこから誰もいなくなってしまうのも好き。
 そしてこうやって空を眺めて、雨の降り出す瞬間を見てみたいんだ』

 ああ、どうしてあの時のセージの言葉なんか思い出すの。

 全ては時間に殺された。

 やめて…あの直後に誠ニは!
 嫌よ、また雨が降りそう…嫌な湿気が充満した淀んだ大気。
 わたしはあの時も今も、じめじめした6月が大嫌いよ!!
 もう思い出したくない! あの頃の事は!
 誠ニが激しい病を発症して、
 それからセージまでおかしくなって、
 わたしももう何が何だかわからなくなって、

 やめて…
 セージ。

 郵便受けの陰に潜むゲジを見つけた瞬間、わたしは戦慄を覚えた。
 …「こいつ」を駆除して!