【a silent June】


  ぼやけた霧に、僕の大好きな蒼紫色の紫陽花がしっとりと濡れる様は、この上なく美しかった。

 この霧に包まれた某所の山荘はどこまでも静かで、梅雨時というのも手伝って、僕の箱庭のようだった。
 いつまでも灰色の空。 思考力と体力を削ぎ落とす湿気。 それでもぼやけた紫陽花群は夢みたいに綺麗で。
 ここは何処だ!?
 話が出来過ぎているよ、ここは僕の理想郷ではないか?
 人里を離れて半月ばかり、そうか、僕にとって世俗から離れる事は理想の世界へ旅立つ事と同義だったのだ。

 悪戯に湿った平たい石をひっくり返すと、透き通った無数の脚を持つ蚰蜒(ゲジ)が、かさかさかさと疾走した。
 蚰蜒。 いつしか僕はこいつを可愛く思うようになった。
 いいや、正確には、こいつを見て驚き恐れ嫌がる人のリアクションが可愛らしい気がする。
 この感覚が何かは知らない、でもきっとサディズム、の、一種みたいなものだと思う。
 可愛い娘が悪寒を催して嫌がってるの、なんだか可愛いじゃないか?
 キミも男の子なら好きな娘に何かしら生物をけしかけた経験、無いかい?
 さーて、どうかな。

 いつでも雨に変われる水蒸気が充満する6月の空を、白痴みたいにまっすぐ見上げてみる。

 …リコ、rico…。

『ちょっと貴方! 悪戯のつもりでしょうけど、ゼッタイ頭おかしいよ!』

 rico。 可愛い幼なじみ。 ずっとずっと僕を見てくれてた女の子。

『今の貴方、まるでたちの悪いストーカーじゃない! お願いだから早く駆除して頂戴!!』

 ふへへ、と間抜けな笑いが口をついた。 土の上にしゃがんでみると、今もぐるぐる走り回るゲジが愛しい。

『なんでさ、ゴキブリ食べるんだよ、すごい益虫。  何気に最強の虫じゃないか?』
 そう言って笑ってあげた刹那の、平手打ち…稲妻が走ったみたいだったっけね。
 土壌で悶えるゲジの背中を指で押さえてみる。 かさかさ言って焦ってる。
 ゲジを瓶に集めて、彼女の部屋に放った。
 そんな些細な思い出が懐かしくて、忌み嫌われるこいつが何だか僕みたいで、僕はこいつを白衣の懐にしまう。
 …かさかさかさ。
 僕の身体を掻き乱す。
 …かさかさかさ…。
 僕の記憶を掻き乱す。
 …かさかさかさかさ…。

 …セージ、あなた最低だよ…。
 ねえ、いつからそんなになっちゃったの。
 わたしは、優しくて明るい貴方が大好きだったのに…。
 いまの、あなたには、もうついてけない。

 …ジェミ!!
 僕は呼んでいた。
 決して裏切らない、僕のジェミニを。
『…はい、博士』
 彼女は無垢だった。 そして僕に似て優しく明るく、それでいて退屈の嫌いな気分屋であった。
 それでも彼女は、僕のモノ。
『ジェミ…なあジェミ、お前は僕を裏切ったりしないよね?』
『ええ、博士大好き…私と博士は一心同体、だもんねっ』
 ジェミは、小悪魔のように妖しく可愛らしく語りかけ、僕にまつわりついた。
 そして、口を付ける。 生暖かな口腔粘膜が、とろけて混じり合う。
『ん…は、かせ…っ』
 唇に食いつかれながら、恍惚の表情で僕を呼ぶ。
 僕はそんなジェミの口を、内部から吸い上げて完全に塞いだ。
 無生物故に呼吸する必要も無いジェミは、いつまでだって僕と一体になっている事だろう。
 僕がジェミを造ったのは、ただ寂しかったから。
 そして…成人しても童貞のままだった僕は、性欲を処理するよりも、キスと言うものをしたくなったからだった。
 性欲処理なんか、一人でいくらでもできる。 けれども、歳を重ねる度に僕は、甘酸っぱいキスの味に憧れた。
 スキンシップ…誰かを愛する事…一人ではどう頑張ってもできない事を、してみたかった。
『ジェミ、お前はどこへも行かない…』
『はい』
『ジェミ…、お前は、僕を裏切らない、置いていかない…』
『はい』
『そうさ…そう造ったんだから…。
 お前は僕の、永遠の伴侶だ。 僕の爛れた不具の心にも寄り添い続ける。
 ずっと、ずっと、ずっと…!』

 ………。

『やっぱり、貴方は…狂ってる』
『…!! rico…』
『貴方は可哀想な人よ。 今は、純粋にそう思う。
 お望み通り、貴方は間違いなく病気だわ。 座敷牢でも好きな所に行けばいい。
 …私が同情してあげるから、ねえそれで満足でしょ』
『rico、僕はジェミさえいれば何もいらないって言ったろう?』
『…また、いつもの手なんだわ。
 封筒に住所なんか書いちゃってさ、貴方を心配になれ、って合図なのよ。
 それが「特別な幼なじみ」で「一番の理解者」の私がしなきゃいけない事だって。
 だから折れてあげたの、貴方の構って願望に。
 でも本当に、この山に廃棄された遺伝子の残骸は許せないし…正気の沙汰じゃない。
 だから私、幼なじみの義務として、貴方を連れて行くわ』
『何故さ。 あんな肉片、山犬や熊が拾って喰うだろう』
『…! 貴方…本当に馬鹿になったの!?
 それを含めて、多大な環境破壊だと言っているの!!』
『ふ…ん、相変わらず君はエネルギッシュで、正義感たっぷりで、可愛いな』

『だがまだ捕まる訳には行かんねぇ。 僕の心血注いだ研究はまだ続いてる』
『…わかったわ…。
 熱くなっちゃったかも知れないけれど、これが私の「返事」なだけ。
 残念だけど、強引にどうこうできる状態には無いから』

 そう吐き捨てると、彼女は潔く踵を返して下山していった。
 くくく、相変わらず負けず嫌いなrico。 いつからこんなに可愛くない女になったの。
 可哀想なのはそっちだよ、僕の細やかな神経、崇高な理念を理解できなくってしまった。
 あの頃のrico。 可愛かった、rico…。
 くく、ふふふ、いつか現在(いま)のお前なんか必要なくなるさ。

『ね、ね、博士。 遊ぼう?』
 腕の中のジェミが無邪気に僕を見つめる。
 そうだね、遊ぼうね。
 嫌な事は全部忘れてね。

 紫陽花にはいつの間にか雨垂れがきらめいていた。