第八話『逆転』



『小鳥遊クンっ』
 惨劇から数日が経過し、少しだけ教室に明るさが戻ってきた。
『あ、沖野サン、なに?』
『一緒にお弁当食べない?』
『うん、でも僕は持ってきてない〜』
 小鳥遊は両手をひらりと見せておどけた。
『じゃあ購買?』
『だね』

『小鳥遊クン、前お弁当持ってきてなかったっけ?』
『うん、ひっくり返されたりとか』
『あー………』
『あはは、気にしないでってば』
 ツナマヨネーズの乗ったパンを頬張りながら楽しそうに昔の話をする小鳥遊。
『沖野サンと食べる、やっすいパンの方がよっぽど美味しいや』
『そ、そうかしら?』
 まんざらでもなかった。 瞳が輝く。
『校庭の砂塗られてないもん』
『あ、そう…』
『今思えば買ってくる方が安全だよね』
『そ、そうね…』
 一人で納得する小鳥遊に苦笑するしかない海優であった。

『ほ、ほら小鳥遊クン。 それだけじゃ味気ないでしょ? 私のおかずあげる』
 そう言って海優は玉子焼きをひと切れ差し出した。
『ケチャップ…』
『…血みたい? 食事中はやめようよぉ』
『あは、そうだね』
 小鳥遊は、海優から貰った甘酸っぱい玉子焼きの味を噛み締めた。
『うん、ひとしお美味しいよ』
『ふふっ、大袈裟〜』
『ほ、ほんとだよっ、嬉しいんだもん』
 海優から貰った事が。

(あ〜あ、沖野サン…)
(ケチャップのせいで本当に血が見たくなっちゃったじゃないか…)
(…綺麗な沖野さんを形作ってる血の源に、君の心臓に触れたいよ。
 そっと胸を切り開いて…)
(なんて言ったら、物騒だからやめとくけど)
『どうしたの、小鳥遊クン』
『ん? いや別に何でもないよ…』
『本当〜?』
『ほ、本当だよっ』
『ふふふ、顔赤いよ?』

 そしてまた同じように二人だけで下校する。
 だが、小鳥遊は海優には変わらずに接しながらも、血への渇望を常に感じていた─。

(躯が、冷たいよ…)
(…熱い血を浴びたいよ)

 夜になると、当然のように小鳥遊は欲求のままに街を彷徨った。
 そして見つけてしまったのだ、これから犠牲となる者を。
 コンビニにたむろする不良、その中にはかつて自分を野良犬のように弄んだ生徒が居た。
 深夜でも金髪がよく目立つ。
 見つけた瞬間、小鳥遊は血への渇きだけでなく、躯の奥底から突き上げるような怨念を覚える。
 「殺したい」。

(馬鹿正直にこっちから出て行っちゃダメだよね…ふふ)
 小鳥遊はその集団が散るのをじっと待ち続けた。
 少しばかり経って、まさに小鳥遊の狙った生徒が、一人群れから抜け出してきた。
 何をしに行くつもりだったか、そんな事はどうだってよかった。
 今、その生徒の未来─人生は小鳥遊によって断たれるのだ。
『××君っ…』
 名前などどうでもいい。
 小さくとも静かに通る呼び声。 いや、後ろ暗い者だからこそ認識できた、その声。
 生徒はビクリとかすかに緊張して、振り返る。
『…て、てめえは……』
『さあ? 誰だったでしょう〜』
『………小鳥遊』
『あは、名前、ちゃんと覚えてるんじゃないですかぁ…』
 幽霊か何かのように、力無く、それでも相手にだけはハッキリと聞こえる声を紡ぎながら、「彼」はにじり寄ってくる。
 動けない。
 クラス一強かったアイツを惨殺したのは間違いなく、かつてクズのように扱ってきた、無力な虐められっ子。
 理由もなくそう確信する、意志と関係なく身体が震えだす。
 何かが見える…光? いや決して光じゃない、光じゃなければ、闇?
「彼」の体から紫色の不透明な闇がこぼれだしてくる。
 伏した目をちらと上目遣いに開くと、眼光までも紫だった。
『ここで立ち話もなんじゃないですか…どっか行きましょうよ…ねえ?』
 「彼」の死んだ笑顔を見た時、獲物は運命を悟った。 この化け物に殺される、殺されるんだ。

 足が勝手に動いて「彼」の後についていく。 ふらふらとあちこちを連れ回される。
『この辺でいいかも』
 人気の無い、放置された建設現場だった。
『ねーえ、僕だって何もそんなにさ、いつまでも根に持ってやしないんだよ?』
 「彼」は饒舌だったが、聞く方は歯がガタガタと鳴るだけで何も言えない。
『ま、でも…縁もゆかりも無い人を虐めるなんて、酷すぎるでしょ?』
 虐めっ子の不良生徒が、虐められっ子に軽く襟元を掴まれ、容易く地べたに叩きつけられてしまう。
 抵抗できなかった。 尻餅をつき、前を見据えたまま後ろに向かってジリジリと這うのが精一杯だった。
 ああこれは、自分が「彼」を虐げていた時と全く同じ構図─。
『そんなワケで生前、付き合いのあった人に絞ってるだけなんだよねぇ〜、あは』
 ジャリッ、と自分の身体を引きずる音がする。 まだだ、まだ後ずさる。
 やがて背中に壁の感触。 その者の中での全てが終わった。 「彼」は悠々と近付いて来る。
『そんなに怖い? あんなに僕の背中がっつんがっつん蹴ってたじゃないですか、え?』
 「彼」はにっこりと微笑んだ。 喋れば喋るほど陽気に、無邪気に、上機嫌になっていく。
『何も死にやしないさ』
 だがその笑顔も、瞬時に歪み、凍りついた。
『ただ、無くなるまで思う存分、僕に魅せてくれればいいだけ』
『な、なに…をぉ?』
『お前の、血だよ』
 言うやいなや、彼が右手を派手に振り下ろす。 何が何だか解らなかった。
 痒みのような熱い感覚を感じた刹那、自らの左太股がパックリと裂けて盛大に血飛沫が上がる。
『…ぁ、あ…、ひぃっ!?』
『ああ〜、やっぱり太股の動脈はよく飛ぶなぁ〜…たまんないや』
 「彼」はただ目の前に立って血流を上半身に浴びていた。 妖しく笑いながら。
『ウ、ウソだぁぁっ! お、まえ…なんでそんな…あ、あぁあああああぁ!!』
 恐怖、そして出血して気付く鮮烈な痛み、混乱。 獲物はすでに泣き叫んでいた。
 何も持たない「彼」が自分の身体を鮮やかに斬ってみせたのだ。

『お前には見えないのかな、これが。 この「憎悪の刃」が』
(かみ…そ…り?)
 獲物はもはや喉に詰め物でもされたように、呻き声すら発せずにいる。
『ほら、見せてやるよ』
 ただ目の前の化け物に、禍々しく不可思議な凶器を見せつけられているだけ。
 透き通った板状のそれは巨大な剃刀の刃だ。 微かに光を放っているので解る。
 それは3枚、4枚、「彼」の指と指の間に浮かんでいた。
『「この前」はね、ちゃんとナイフ使ったんだ。 最後は何だかわからないまま吹っ飛ばしてたけど。
 でもね、だんだん…僕の欲求が形になったみたいに、コレが出てきたんだよ。
 僕は触れても傷つきやしない。 不思議だろ? どこから出てくるんだろう…ね?』
(─ぎゃあああっ!)
 言い終わる前に、「彼」は自分で名付けた「憎悪の刃」なるもので右肩を斬りつけてくる。
『あはっ、絶好調』
 鈍い音をたてて、何かとても重たいものが泥濘(ぬかるみ)の中に落ちた。
 信じたくなかった。 見たくなかった。 受け入れたくなかった。
『右腕、取れちゃったよ』
(────────────ッ!!)
 泣き叫びたい、だが声も何も出ない。
『ああ…、いいカンジ。 吹き出してるよ…血管何本いったんだろ?』
 「彼」は切り落とされた部位を持ち上げ、見事な切り口を真上から眺めて言う。
 既に「彼」の衣服は乾いた血と新たに吹き出る返り血でべたべただった。
『温かいよ…僕に体温を。 なくなった体温を。
 僕から出尽くしてしまった血を…、血を分けておくれよ』
 「憎悪の刃」は容赦なく、ギロチンの如く振り下ろされていく。
『血を、血液を、命の素を、もっと! もっと欲しいんだ! 血が見たいんだよっ!』
 全身に血を浴びて、彼は狂ったように笑う。

 ───。
 その翌日、四肢をきれいに切断された死骸が発見された。
 出血多量によるショック死だった。
 虐めっ子が、惨殺されていくクラス─。
 小鳥遊を中心に、再び教室が静かな戦慄に覆われていく。



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