第七話『本性』



『ふふ…』
 暖かい雨が降る。
 冷たくなった自分の躯を満たす、真っ赤な雨─。

 しばらく目を閉じて、あの血液の香りを、手触りを、熱さを堪能する。
 「彼」は完全に血に濡れた手を舌先でぺろりと舐めた。
『…やっぱり不味いや、下衆の血は。 あの人の芳しいものとは、大違いだね。
 ねえ、聞こえてる? 聞こえてる? いつかあの人の前で僕を辱めてくれた…』

『…お前だよッ、お前ッ!!』

 「彼」の声色が狂気を纏う。
 ずっと抑圧されてきた憎悪によって、今ここにいる「彼」は化け物そのものだった。
 暗闇の中でも眼光をぎらぎらと光らせながら、自分の手で弄び、壊したモノに向かって叫ぶ。
 あらゆる動脈を深く斬りつけられ全身から血を吹き出し倒れている体格の良い少年。
 意識はあるか、ないか。
『死んだふりかい? え?
 僕知ってるもんね、出血多量でも、死なないうちはギリギリ意識は残ってる。
 何せ経験者だから、さ…、なあ、起きてるんだろ、おい。
 ははっ、いい感じの血糊! どす黒くって汚いお前にお似合いだよ』
 トーンは若干落ち着いた、だが、果てしない怨念と狂気を練り込まれた声が、絶えず皮肉の嵐を紡ぐ。
『…っと、言っても応えられやしないよねっ。
 解ったよ、これだけ血をくれたし、それももう出なくなってきたし。
 そろそろ楽に、してあげよっかなぁ…』

 くくっ、くはは、はははは、あははあはあははははははははは…っ。
 狂ったような笑い声と共に「彼」の眼が、躯が、仄かな紫色のオーラを発し始める。
『死ね! 死ねっ! 跡形無く! 誰のツラかも解らない程にっ!
 消えろ、消し飛べ、腐ったコマギレになっちまえぇッ!!』
 ハイに達した彼の躯に、得体の知れぬ力がみるみる流れ込んでいく。
 そしてその蓄えられた超自然的な力は、堅く握りしめられた拳へ籠もっていく。
 拳に集約された「彼」の憎悪の塊は、無様に転がるモノの頭へと、叩きつけられた。

 その夜の総ては、「彼」しか知らない。

 翌朝。
 兼ねてからどこか陰鬱だった教室は、さらに沈痛なムードに包まれていた。
 机の上の、花一輪。
 クラスメートが、惨殺された。 クラスで一番運動ができて、友達も多くて、男子の中心的な存在だった。
 学校も警察も、まだ公開していない。 新聞はまだだ。
 尤も、その死因ですら物理的に不可能なものなのだ。
 上半身が跡形も無い。 切り取られた訳でもないと言う。
 何か鈍器ですり潰されたような、はたまた大砲ででもふっ飛ばしたように、無くなっている。
 しかしここまで人体の大部分をきれいに吹き飛ばす凶器自体がまずありえない。
 辛うじて個人が特定できたのは、衣服と財布などの所持品からだった。
 いつになっても帰らない息子、顔の無くなった息子。 親の悲しみは、それは計り知れない事だろう。
 検死も何も、まるで雲を掴むような話で、死因は「変死」とされた。
 他にも鋭利な刃物で、四肢の主な動脈を斬られてはいるが、不思議な事に髪も指紋も、足跡すらも採れずにいる。

 しかし生徒達は知っていた。 彼こそが、小鳥遊いじめの主犯だったと言う事を。
 首を掻いた小鳥遊、酷いやり方で殺された虐めっ子。
 小鳥遊は普段と何ら変わりはなく窓際に居る。
 少し気怠げに頬杖をついて、そして宙に視線を泳がせながら、どこか薄く微笑むように。
 クラスは、より深い畏怖に覆われていった。
 漆黒の、死の香りを漂わせる小さな少年一人に対して。

(あいつしかいない、でも、どうやって、非力なあいつがどんな力で。
 ─あるとしたら。 呪い?)
 しかし、誰一人として、暗黙のタブーのように、口には出せずにいるのである。

 海優も、あまり関わらなかった生徒とは言え、さすがに同じクラスで起こった猟奇殺人にショックを隠せなかった。
『沖野サンっ』
 小鳥遊が、声を潜めるように、それでいて、いつもの無邪気に甘えた感じに話しかけた。
『小鳥遊…クン』
 海優の受け答えも、また静かで厳かだった。 今日一日、クラスの誰もが声を潜め喪に服していた。

『怖いよ…』
 土曜の、短い授業を終えて教室を出た海優は開口一番、呟いた。
『うん、嫌な事件』
『小鳥遊クン、一緒にいて。 誰かが側にいないと…』
 海優は涙ぐんだ。
 そして誰もいない廊下、彼女は小鳥遊に身を寄り添えた。
 小鳥遊へ積極的に関わった彼女も、既にクラスから浮いていたのだ。
『おっ…沖野サン』
 抱きつくも同然の大勢になった小鳥遊は思わず声をうわずらせてしまった。
『怖い、怖いよ、私も、気がついたら独りぼっちなんだもん!』
『わかった…よ』
 海優は不安を爆発させたように、泣いていた。 小鳥遊の、冷たい胸で。
『沖野サンは、僕が護るから、ね? えっと、あの、僕じゃ頼りないかな?』
 慌てて取り繕おうとする小鳥遊。
『ふふ…嬉しいよ、小鳥遊クンだって、ただ私の側にいてくれるだけで』
 涙を拭いながら、海優は小鳥遊のうぶな態度が可笑しくて、それでも少し安心していた。
『一緒に、帰ろう?』
『うん、いいよ…』

(沖野サン)
(ごめんよ、驚かせちゃって)
(けど、あいつは当然の報い。 沖野サンが悲しむなら、ちょっと謝っとこうか? ごめんよ)
(でもね沖野サン、君は絶対大丈夫、100%襲われやしない)
(…好きだよ、沖野サン)

 小鳥遊は優しく、微笑みかけた。
 海優はそれだけで安心したようだった。
 言葉少なでも、初めて手を繋いで帰った。
 ─彼の手は冷たかった。
 いつかの友人の言葉を思い出した。 小鳥遊の手は、体は、確かに冷たく感じられた。
 それでも海優はなお、小鳥遊を信じた。

 クラスにぽつんと浮いた、つがいの小鳥たち。



表紙へ 前へ 次へ