第五話『愛撫』
触れ合うきっかけは唐突だった。
『沖野サン』
誰もいない教室─正しくは、海優と全く気配の無かった小鳥遊と二人きりの、放課後の教室だ。
先日の友人との会話以来、ずっとどこか虚ろなままの彼女は、やけに重たく感じられる体でのろのろと帰宅準備をしていた。
そこへ、開け放たれた窓際に寄りかかる彼が声をかけてきた。
誰もが忌み、避けている少年に接触されても、何故だか海優は平静そのものだった。
初夏の生暖かい風に、教室の広いカーテンがゆるりと持ち上げられては波のようにまた戻る。
そんな気怠い雰囲気の中だったからだろうか。
『なに? 小鳥遊クン』
彼女は声の方へ向き直り、静かに、穏やかに応えた。
『あは…僕の名前覚えててくれたんだ』
彼はカーテンの波間で、小首をかしげて無邪気に微笑んだ。
その仕草に、海優は迂闊にも「可愛い」と感じてしまった。
さすが苗字に小鳥とつくだけはあるな、などと気怠くも変に感心させられた。
『ごめん、本当はこの前思い出しただけなんだけど…』
『そっか。 センセーにも久し振りに言われたもんなあ〜っ』
例の説明の時だけだった。
『小鳥遊クンって、結構明るい人だったんだね…あ、怪我は』
『ありがと。 あはは、ヘンな気遣わなくていいよ。
もうすっかり全快だから』
それでも、あの傷が一週間…包帯をしていた数日を含めても、そんなに簡単に塞がるものなのか。
男子用の開襟シャツからは、あの痛々しい傷跡がはっきりと見える。
自らの手で切り裂いたと言われるその痕が。
彼はあれから笑顔を絶やさない。 友人が彼を怖れる訳が、少し解った気がした。
それでも海優は、何故だかあからさまに彼に嫌悪を感じる事は無かった。
むしろ…小鳥遊透と言う不思議な(不気味なのだろうが)少年に、興味を持ち始めていた。
『ねえ、小鳥遊クン』
『ん?』
『もう二人しかいないし、一緒に帰る?』
『………』
転校してほんの数ヶ月とは言え、彼はそんな言葉をかけられたのは初めてらしく、目を丸くした。
しかも女子からの誘いである。
『いいの?』
『え? う、うん…なんとなく、ね?』
『ありがとう』
また彼は微笑んだ。
心底幸せそうに。
『じゃ、戸締まりしてかなきゃねっ!』
『うん』
小鳥遊は自分の居た場所の窓を閉め始め、海優もそれを手伝った。
しっかりと窓に鍵をかけて、二人で鞄を手に教室を後にする。
小鳥遊は薄く微笑んでいた。
『人と帰るの、始めてだなぁ…』
『そうだったんだ、ごめんね』
『ううん、いいよ、今嬉しいもの』
『小鳥遊クンの家はどの辺りなの?』
『沖野サンとは結構近いんじゃあないかな…帰ってるとこ、よく見かけるよ』
『そうだったんだ…』
二人は取り留めなく会話をしながら、帰路につく。
空は白く薄曇り、梅雨に近い湿度と気温のせいか、街の風景全てが気怠さに覆われているようだ。
珍しく人影も無かった。
『雨が降りそうね』
『うん、天気雨かな』
『私は結構、こんな雰囲気も好きだな…』
しばらく、海優は静かな街を見ながら歩いていた。
そしてはっと小鳥遊が一緒だった事に気付いて視線をそちらに向けると、小鳥遊と不意に目があった。
『あっ…』
小鳥遊が動揺したかのように声をあげた。
海優の横顔を、彼がじっと見つめていたからだ。
『ふふっ』
海優は笑った。 だがそれも内心、照れ隠しだった。
『ご、ごめん…女の子と帰るなんて、初めてだからさ…』
小鳥遊は俯いて視線を泳がせながら言った。 いかにも、しどろもどろだ。
海優はそんな彼に、また愛おしみを感じてしまう。 孤独でシャイな少年なのだと感じた。
(可愛いコ…)
その時だった。
『あ、痛っ…』
海優が突然立ち止まり、屈んで左腕を抱えた。
『えっ、ど、どうしたの?』
『そこの…垣根に引っかけちゃったみたい…』
『…ありゃ酷い』
ガーデニングにしても、明らかに中途半端な手入れのせいで、太い薔薇の茎が通路側にはみ出していた。
『ねっ、ねえ、沖野サン平気?』
『う、うん…』
『あ…血が出てるよ…』
傷は案外深いようだ。
触らなくとも、自然に血が滲んでくる。
小鳥遊は、きめ細やかな肌に深紅の血をたたえた彼女を見て、思わずたまらない気持ちになった。
『小鳥遊クン!?』
彼は、彼女に寄り添い、負傷したその腕に舌を這わせていた。
冷たい舌だった。 血の溢れてくる引っかき傷を丹念に舐めあげる。
『小鳥遊、クン…』
彼は目を閉じて無心に傷に吸い付き、舐めていた。
いや、無心ではない、恍惚と言うべき陶酔しきった妖しい表情だった。
突飛なうえに、どこか淫靡さを感じさせる倒錯した行為に、彼女は何も言えなくなっていた。
どれぐらいの時間が過ぎただろう。 きっと客観的には、ほんの数分間。
それでも彼女にはいつ終わるのかわからない処置…いや、立派な「愛撫」を受け、それがいつまで続くのか解らない。
むしろ、驚きと何だかわからない感情の中で、時間が止まったかのようにさえ思われた。
小鳥遊がスッと薄く目を開けて、彼女の腕から口元を離した。
何故だか彼女はドキドキして、言葉が出ない。
『…沖野サンの血、甘くて美味しかったよ』
『えっ…』
彼は妖しげな笑みを浮かべて囁いた。
海優は余計に何を言っていいのか解らなくなった。
『…なんて、ね。 制服に血がついたら困るだろうからさ』
彼はまた普通の笑みに戻ると、軽妙に言った。
『余計な事して、ごめんね。 イヤだった?』
『う、ううん…、ありがと、イヤじゃないよ…』
イヤじゃない、は決して嘘ではなかった。
『そう? そろそろお別れだけど、早めに帰ってきちんと手当てした方がいいよ』
『あ…そうなんだ、ありがとう、ね』
『うん…それじゃあ。 僕の方こそ、ありがとう、嬉しかったよ』
そう言い残して、自分の帰宅ルートとは別の道を歩いていく彼。
確かに、腕の血は止まっていた。 気のせいか痛みも引いた気がする。
(小鳥遊クンって、一体…?)
彼女はしばらく彼の後ろ姿を見つめた後、自分の家へと帰って行った。
腕を消毒して包帯をしてからも、彼の事が頭から離れなかった。
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