第四話『豹変』


 彼が復学したその日から、引き潮のようにいじめは無くなった。
 誰もが自殺を試みただろう彼を腫れ物のようにそっとしておいていた。
 包帯が取れるまでは噂話が囁かれていて、おそらく首を括って失敗したのだとの憶測が有力だった。
 だが結果は違った。
 きっと誰もがたわいのない首吊りごっこの失敗だと、思いたがっていたにすぎないのだ。
 一部の生徒は気付いていた、以前から彼の手や腕に鋭く斬った傷痕があった事、シャツに落ちた血の滲みの事に。

 包帯の取れた彼の白い首筋には、左側から十数センチものいかにも深い切り傷が、くすんだ色で盛り上がり焼き付いていた。
 あいつは、自らの首を掻いた。 自分の首を、掻っ斬った。
 
 それからずっと、教室には重苦しいような異質な静けさが漂っている。
 ─死の香り─。
 おかしい程に明るく朗らかになった彼の首筋にはあまりにも深すぎる死の刻印がある。
 誰もが、彼の纏う「死と狂気の匂い」を畏怖していた。 地獄を見ただろう漆黒の瞳をも怖れた。
 包帯が隠していた凄惨な傷痕が露わになって以来、彼の噂話さえ忌み嫌われ、教室では誰もが押し黙るのみだった。

 帰路。
『あの人の手は冷たかった』
 海優と共にいた友人がが突然そう語り始めた。
『プリントを受け取った時に…。
 あの人の手って、なんだか血にまみれてるみたいで触りたくなかったんだけど。
 あの…なんて言ったっけ』
『たかなしクン』
『だっけ』
『皆、彼の名前を忘れてるんだよね』
『うん、だって苗字読めないし。
 でも今は名前解ってても、なんだか呼ぶのが怖い。
 …ええと、名前はなんだっけ』
『透君』
『あ…、まだトオルがいたんだ』

 もしかしたら、彼の名を知っているのは自分だけなのかも知れない。
 海優はただ虚しかった。
 悲しい訳でもなく、彼に同情するでもなく、ただただ、空虚な心持ちになる。

『なんか急に、人が変わったみたいに明るくなったよね』
『うん』
『でも、それが…怖い』
『私は、怖くはないけど』

 それから、言葉が続かなかった。
 怖くはない、けど、なんなのか。
 この気持ちは一体?



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