第三話『名前』
小鳥遊
透(たかなし とおる)、それが「彼」の名前だったと、今しがた彼女は思い出した。
転校して間もなく、気付けばクラスの大半から虐めの対象にされてしまった彼の名を、誰も呼ぼうとはしなかった。
それ、あいつ、こいつと言われていた。 教師ですら尻馬に乗って彼を爪弾きにするような、腐った奴だった。
ただ、誰も呼ぼうとしないから、忘れ去られてしまった。
それだけ。 それだけに過ぎないのだ。
彼女が、彼の名前をふっと思い出したのは、彼が突如欠席し、一週間後「首」に包帯をして、やけにすっきりした爽やかな表情で復学してきた初日だった。
(たかなし、トオルくん…)
彼女─沖野 海優(おきの みゆう)は頬杖をつき、シャープペンシルの頭を口元に押し付けながら彼を見ていた。
『ちょっとした怪我で気付いたら七日も休んでしまってました。
どーも、ご心配おかけしてすみませんっ』
教壇で軽く事情を説明して挨拶した彼こと、小鳥遊少年は極めて陽気だった。
あの明るい少年が、今までも同じ教室にいた小鳥遊透というクラスメートだったのだろうか、と海優は思った。
今までの彼は居ても居ない存在、名前の漢字ではないが本当に何も解らない透明な、希薄すぎる存在だった。
ただ、認知されているのは大半の男子から虐められている子、と言うだけだ。
彼が際立った自己主張をした場面を見た覚えはない。 かと言って陰鬱な雰囲気の生徒でもない。
取り立てて印象に残る事の決してない、少年だ。 皆が彼を空気のように思っていたのではないか。
同じクラスにいながら、いつの間にか名前すら消えかかっていた、「彼」。
確かにその苗字は非常に難読で、普通に読むのは不可能だった。 だから、なかなか覚えてもらえなかったのだろう。
海優も、今不意に火花が散ったよう字と読みを思い出したのだから。
名前はごくごく普通なのに、既にこのクラスには字こそ違えど二人の「トオル」が存在していた。
しかもどちらも運動で目立ったり、面白い言動でクラスの人気を集めるような者達だ。
ほんの少し前に転校してきた「三人目のトオル」など、前の二名に比べたら地味すぎて誰の歯牙にもかからない。
ちっぽけで貧弱で、気の利いた事を言おうとしては滑り、いつしかクラスの大半の加虐心に火を着けていってしまっていた彼。
見て見ぬふりをしながら、同じように名前を呼ぼうとしない教師も、立派な虐めをやっていたではないか。
ああ。
彼が名前すらも奪われ、蹴り回されたり恥をかかされて笑い物にされていた、このクラスの日常は異常だったではないか。
本来のものかどうかは知らないが、晴れ晴れとした彼の表情、そして裏腹に首に巻かれた意味深な純白の包帯─。
海優は、彼の明るい表情がむしろ悲痛に感ぜられて、自分は今まで諦観の念にとらわれていたのだと気付いた。
教室(ここ)は病んでいる。
どうしようもなく腐敗した生やさしい地獄に違いない。
彼が来る前だってそうだった、常に誰かが小突き回されて蔑まれ笑われていた。
そんな光景に慣れてしまっていた自分は、ひどい腑抜けだったのだと憤りが湧き上がった。
彼女は、彼に何が起こったのかに気付いてしまったのだ。
いや、憶測は簡単だった。
気まずそうにしている生徒は他にも沢山いるのだ。
彼は、おそらく。
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