第十九話『終焉』


『三つノット…祈りを込めて…!!』
 イスカは防戦一方、時折呪文のような不可解な言葉を呟きながら「紐」を操り、小鳥遊の猛攻を紙一重でかわす。
(気のせいか…結び目が増えているみたいな…)
 海優の目にはイスカが呟く度、「紐」に作られるこぶから放たれる光は強くなっていくように感じられた。
『五つノット、力を蓄え…ッ!!』
『なーにをやってるんだか知らないけどっ、動きが鈍くなってるよっ!』
『ふん…』
 イスカの手首を凶悪な凶器の塊「刃の翼」がかすめ、小さな血飛沫が舞った。
 それでもイスカは動揺は見せないようだった。
『このまま距離が縮まれば、どんな事になっちゃうかなァー?
 や、つ、ざ、き…? あはっはははっ』
『…っ、七つノット、全ての力を…』
『ほらあっ! 道路はどこまでも続いてるワケじゃあないんだよっ!』
 小鳥遊は人ではなく─これが完全な「駆死者」なのか、闇の中で邪悪な陽炎を揺らめかせ、傷付けるためだけの刃を振るう。
 その動きも当然人のそれでは考えられない。
 へたばる様子など微塵も見せず、禍々しき翼で絶え間なく絶望をはばたかせる。
『う…ッ!』
(いやっ、イスカさん!)
 また、鮮血が飛ぶ。
『顔は女の命、なんて、つまんない洒落だよ、くくっ』
 イスカの右頬にあの翼状の刃が触れ、表面の皮を裂いたのだ。
『もーうちょっと奥なら…顔半分無くなっちゃったりなんかしてぇ…』
 小鳥遊は動きを止め、「魔女の血」を興味深そうに指に絡めた。
『八つノット…月と大地の女神よ…ッ』
 イスカはまるで気にせず、いや、恐ろしいまでの精神集中で連番の呪文を呟き続ける。
『おっと、まだやる気だもんね?』
 小鳥遊も再び凶鳥の構えを取り、大きく両腕を振りかざした。
『さあ─この僕の駆死者としての力の総て! 「刃の翼」で跡形も無くなるんだよッ!!』
 魔物は狂ったように叫びながらその地獄の翼を振り下ろす。
 幾何かの「紐」に護られた魔女の全身へ向かって。
『い…いやっ! イスカさん! 小鳥遊クン…!!』
『!? お、沖野サ…!?』
『…くっ、うぅっ!…九つノット、全ての力を解放す───!!』
 それが最後の呪文だったのだろうか。
 力強いチャント(呪文の詠唱)が響き渡ると共に、それまでとは比べ物にならない七色の光が辺りを包む。
『な、なにが…』
 小鳥遊の声から力が抜ける。
 彼の目の前には巨大な魔法陣を象った、「紐」が浮かび上がり、盾のようにイスカを守護していた。
 振り下ろした刃は融けていくようにまばゆい光に吸い込まれていく。
『魔女術─悪魔の類から身を守る結界の最大級のもの…九つの結び目一つ一つに魔力を蓄え、揃えば完成…よ』
『魔女術…? くそっ! こんな薄っぺらい光の奥にヤツがいるのに!
 何故─何故斬れない!!』
 イスカの眼前の魔法陣、さらにその一辺を包む七色の光。
 この光に捉えられた時点で、小鳥遊の魔力が殆ど無力化しているのは、明白だった。
 「憎悪の刃」は薄く乳白色に、エッジも丸く、まさに融けてしまった。 それをいくら振りかざし叩き付けても、「魔女の結び目の結界」に触れると、飴のように虚しく崩れていく。
『無駄だと言ってる。
 この一人の魔女が精根込めた結界は、全ての悪しきもの─間違った論理より生ずる魔力を吸収するわ』
『くそっ…! 力が、力が…!!』
 吸い取られる力。
 小鳥遊はままならぬ自己の力に失望しきるしかなかった。
『それより、さっき聞こえた声…まさか…』
『………』
 海優は、全てが終わった事を確かめると、自然と小鳥遊のいる方へと歩みを進めた。
『沖野…サン…』
『観念なさい』
 イスカは、言った。
 そして取り出したのは、あの日見た、銀色に輝く「杭」。
 これを心臓の位置にに突き刺せば小鳥遊─駆死者─の全てが浄化され消滅するという武器。
 自らが強大な力を得た駆死者と向き合い、柔肌を幾度となく傷つけられながらも、追いつめた魔物。
 それも渾身の力で貼られた魔女術の「九つのノット」の結界によりあっと言う間に無力と化した。
 力を失い、茫然自失の小鳥遊。
 さらにそこには自分が騙し続けて、それでもなお自分との絆を求めた女子が居る。
 この世界で唯一、「魅了して幻惑状態に陥れていただけ」の女の子が現れる。
『沖野サン…はは、嘘だろ…まさか、僕の、全てを…』
『…見てた、そして、解ってた…小鳥遊クンは…もうこの世界にはいなくて…。
 怖い事件も…小鳥遊クンが手をくだしてて…私と過ごした明るい日々は…他の誰にも見えない、私とキミだけの夢だったって事も』
 海優がか細くもしっかりとした声で答えると、力を失いきった駆死者は膝をついた。

『貴方が「駆死者」となってから、どれだけの他者の血を流してきたのか。
 それが、人の業としてどれほど重いものなのか、もうそんな事すら判断の出来ない悪鬼。
 いい加減気付いているんでしょう、貴方はもう─』
『解ってないはずがないだろう!』
 小鳥遊は深く怒りを抑え、イスカの糾弾の言葉を遮った。
『「目が醒さめた」、その瞬間から解ってたんだよ!
 絶対に僕は死んでいるはずなんだって!
 僕の血は全部出尽くして死体になったんだって!』
 小鳥遊は立ち尽くしたまま、声を振り絞り心の底から叫び続けた。
『じゃあ、何故!!』
 イスカはより強く、だが揺るぎない落ち着きを以て、彼に問うた。
 小鳥遊はぎりぎりと歯を噛み締めた。 生身の─血の通った人間であるならば。
 そこには涙が零れていたはずだった。
『貴方が情魔を呼んだのは、容易く駆死者となったのは、それだけ強烈な無念があったから。
 …貴方が、歪んだ欲望と同時に辛い思いを秘め続けた事、それは、よく解るから。
 自身に何が起こったのか理解できないまま駆死者となってしまったのも…。
 けれど、貴方が。
 貴方が強く願えば、情魔を追いやり、あるべき自然の…死者に戻る事もできたかも知れないのに』

『どうして、そのまま取り返しがつかなくなるまで浸食され続けてしまったの』

 イスカは改めて、囁くように、静かに一つ問いかけた。
『それは…』
 小鳥遊が口を開くと、表情は笑顔へと変わる。

『僕は死ぬ事で蘇る事ができたから』

『………』
 哀しみ、自嘲、開放感。 複雑な気持ちの入り混じった、彼の微笑。
 イスカも、そして海優も…吸い込まれるように彼を見つめた。
『僕は死によって尊厳を取り戻した。
 僕は体温を失って人生を取り戻した。
 僕は…生命を絶って、初めて本当の笑顔を取り戻せた』
 小鳥遊は笑った。 幸せそうな顔は、それでも最期を予見し、享受しているかのようだった。

 己が本当の姿─灰と塵と、無に帰す運命に沿って。
『たかなしっ…小鳥遊クンっ!!』
 イスカは決意の佇まいのまま、ただただ彼を見つめていた。
 どうあっても討たねばならぬ怪物、強大な駆死者を。
 だが海優は泣きながら彼の名を呼んだ。
(君のおかげで)
 海優には小鳥遊の心の声が聞こえていたか、それは定かでは無い。
通じたと、彼は確信したかった。



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