第十六話『血煙』


『─あなたはどうして血管を切りつけるの』
 ぼんやりとする日中。
 もはや自分を「駆死者」と認め、より異形の者へと変化した小鳥遊は、蝙蝠のように昼間は姿をくらませている。
 死したどころか灰状に成る変幻自在の躯。
 人前から姿を消す事など、人外の小鳥遊にとって容易い芸等になっていた。
(白い…太陽…雨が降りそうだよ)
(今かすかに響いた声は誰、沖野サン? 母さん? 保健の先生?
 中学の頃の保健の先生は優しくて美人だったなぁ…切り刻まれた僕の腕をいつも見つめてた…)
 姿すら不可視の少年の意識は夢の中のように幻惑的だ。
(きっと僕の思う女の人の、意識の集合体なんだろうな)
 自分の腕は肩から手首、指先に至るまで幾度と無く自らの手で斬ってきた。
(血が…好きだから、それだけ、もしかしたら興奮してるかも)
 意識体の中で少年は彷徨うように思念を言葉に変換してゆく。
 いわば眠り無き睡眠であった。
『─あなたはどうして血管を切りつけるの』
(さあ……)
 小雨が降り始める中、少年は微睡(まどろ)んだ。

 雨は日没になっても降り止まなかった。
 静かな雨音だけが、殺伐とした街に響き渡る。
(ああ…女神の血!
 この所、正義の使命ばかりで自分の好きな相手を選んでやしなかった!
 粘着くようでどす黒く汚らしい血ばかりを浴びてきた。
 そうだ、ご褒美だ、とびきり甘く清らかな血の女の子を─)
 久方ぶりに止まった心臓が疼いた。
 それと同時に傘をさす制服姿の少女が視界に入る。
 ─不運な少女だった。
 音もなく雨に打たれる事もなく黒い少年はゆらりと少女の背後に移動する。
 二つのおさげにされた長い髪の間からは、白く薄い皮膚が露出し─もはや常人には嗅ぎ付けられない─芳しい血の匂いを醸し出していた。
(きれいだ…清純でおいしそうな娘だよ…ふふふ)
 スッと後ろを離れて着いて来る「彼」はあの刃を具象化させた。
 雨に透き通る美しい剃刀。
(まずは一枚、あの首を…)
 「彼」が舌なめずりすると同時に、駿速の少女の華奢な頸動脈は、鋭く筋が走り血が噴き出した。
 道路に投げ出された傘。
『なっ…なに…なに、これっ…いやあぁ!!』
 少女は相手などよりも自身の身体に突如起こった異変におののいた。
『いやぁっ、いやっ…血が止まらないよっ!』
(ああ…、可愛い)
 「彼」は鳥のように冷淡に血飛沫の中で泣き狂い舞う少女を鑑賞している。
 少女の制服は真っ赤に染まりどこのものだか解らない程だった。
 噴き上がる血液。
(さあ、もうちょっと血をおくれよ…)
 少女の左肩を透明の刃で撫でる。 さらに新しく吹き出す血。
 悶える少女は首だけで完全にパニックに陥り泣き叫ぶだけしかできない。
(ああ─これこそ僕の本能が求めるもの)
 浸った水に血液が滲んでゆく。 それはとても美しく。
『ねえ…どんな気分? 気持ちよくない? 僕は最高に気持ちいいよ…』
 さらに右肩、おさげを落とした少女は血みどろに悶え続ける。
 刹那、血煙(けつえん)。
 太い動脈が切り開かれ裂けたことで雨の勢いなどまるで問題にせず真っ赤な飛沫が上がる。
『あは、最高っ』
 「彼」が歓喜に吠えた瞬間、血煙の向こう側に─。
 「彼」の想い人が傘をさしたまま視線をそらせないまま立っていた。

(…………ウソだっ!!)

 瞳を見開き呆然と立ち尽くした「彼」の心の中の叫びは、否定。
『たかなし…クン…』
『違う…っ!』
『これは一体どう…いう…』
 よく見ると倒れ悶える少女は自分の学校のセーラー服を着ていた。
(通学路…)
 もはや「彼」は自分が人であった頃の記憶さえ忘れてしまったのか、気が付けばそこは見慣れた通りだった。
 ゆるやかにだが、血煙が引いていく─その前に。
『待ってっ、たかなしクン…、小鳥遊クンなんでしょ!』
 海優はただ確かめたかった。 小鳥遊は存在する事に─だが、「彼」は逃げた。
 身を翻すように、不自然な速さで、空を飛ぶように。
『一体…一体…なんで…』
 海優はその場で泣き出した。
 小鳥遊は死して一体なにになってしまったと言うのか。
『…あなたは、まさか彼に…?』
 床に広がる凄惨な光景、彼女はまだ息があるようだった。
『ごめんね、今助けを呼んでくる!』
 まるで小鳥遊のしたであろう事を自分の事のように思っていた。
 海優は公衆電話に向かって駈けていった。
 ほどなくして、救急がやって来る─。



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