第十四話『虚無』


(…小鳥遊クン)
 小鳥遊が教室に現れなくなってから三日目。
 海優にとって、その三日間の欠席はとても長く感じられた。
 相変わらずクラスメートは小鳥遊の事など話題にさえしようとしない。
 彼の名前を出す事自体が、もはやある種のタブーになっているかのように。
 深い陰を引きずりながらも、平穏なクラス。
 小鳥遊がいなくても何も変わらないクラス。
 海優はその淡々とした日々に、ついに我慢がならなくなった。
 そして休み時間、かつて一番親しかった友人に、彼の事を訊いてしまったのだ。

『ね、ねえ…小鳥遊クン、最近ずっと休んでるよね?』
『…また? もうよそうよ、あの人の話は』
『そ、そんなの酷いよ…彼もこのクラスの一人だよ?』
『何言ってるの? だってあの人は』

『もうとっくに死んだ後じゃない』

 海優の頭の中が、瞬時にして空白に染まる。
『お葬式は家族だけでいいって…事情が事情でしょ。
 一度首に包帯…して来て…、それからまた翌日に…首を』
 海優の友人は眉をひそめおぞましいものに触れるかのように怖々と語った。
『もう先は言わせないで、あの人の事はみんな早く忘れたいんだ。
 惨(むご)く殺されちゃった人達も、名指しであの人の遺書に書いてあったって話。
 だからこれは…あの人の、呪い。 それはずっと続いてる』
 友人は、怒っているのか、嘆いているのかわからない風に海優から顔を背けた。
『…うそ…』
『………』
 顔を伏せ、表情のわからないままの友人は席を立ち、諭すように静かに言った。
『…あんたには、犠牲になって欲しくないから』
『…だから、忘れるの。
 あの人の全部を早く忘れるんだよ』
 そう言って友人はどこかへ去って行った。
 まるでこの教室にいるのがいたたまれないかのように。

 一人きりの帰り道、海優はいつもと違う方向へ走っていた。
 小鳥遊との、別れ道。 小鳥遊が帰ってゆく方へ。
 住所は連絡網で一応確認しておいた。 そう遠くではなく、むしろ自宅に近い。
 小鳥遊姓はほどなくして見つかった、まずここに間違い無い。
 海優は、意を決してチャイムをゆっくりと押す。
 虚無。
 全てが静止したかのような空気が、流れる。
『………』
 インターホンの受話器を上げたと思われるノイズが伝わってくる。
 間を空けて、母親らしき優しくも無気力な声ではい、とか細い返事が聞こえてくる。
 その声は小鳥遊によく似ていたから─海優は臆さず、応える事ができた。

『私、沖野と言います。 小鳥遊クンの、友達…ですけど』
『……透の…?』
 親しげな女子の存在に虚ろな母親はかすかに反応したようだ。
『はい、つい最近まで…その、お友達として、付き合っていました』
『…解りました、中でお話しましょう』
 程なくして鍵は開かれ、若々しい気品を持ちながらも明らかにやつれた様子の小鳥遊の母と対面する。
 その打ちひしがれた表情には痛々しさが潜み、やはり自殺の話は真実なのかと揺らいでしまう。
『立て込んでいて、散らかっておりますけど…どうぞ』
『…はい』
 玄関で対面し、しばし、無言。
 黙する母親に何から話しかけて良いものか海優は考え込んだ。
『何か冷たいものでも』
『あ…いえ、お構いなく。 それよりも…』
『…透の事ですか。 部屋を見ていかれます?』
『は、はい』
 それは海優の一番望んでいた事かも知れない。
 あっさりとリビングに上がる事無く廊下の階段を上がる。
『透の部屋は…事の後、業者の方に処理だけはして頂いて、それ以外はできる限り生前のままにと…』
 消え入るように説明しながら、母親は扉をノブを捻る。
『ここが…』
『ええ、それ以外は手をつける気にならなくて、埃も被っておりますけど…』
 ─確かに生活感の無い、がらんとした部屋。
 整えられたままのベッドに、均等に薄埃を被った床と小型テレビの乗った勉強机。
 人の居た形跡は全く感じ取れなかった。
『ここが…小鳥遊クンの』
 呆然としながらも海優が口を開くと、母親は静かに涙を溢れさせる。
『何も気付いてやれなかったんです』
 自責の言葉だった。
『あの子はいつも明るい顔をしていました。 私に心配をさせまいとして。
 生傷は絶えず目につきました、けれど、触れてもあの子は笑ってごまかしていたんです。
 ちょっとした切り傷が目立っていたのに、動物に引っかかれたのだとか、美術で刃物を使っていて失敗をしたとか…。
 でも、私は親として根本から間違っていたんです。
 そんな時だけは我が子を全力で疑わなければならなかったと。 とことん追求していたら真実は』
『お母さん、もう…いいですから…』
 海優も目が潤んでいた。
 真相はどうであっても、今ここにある母の悲しみ、辛辣さは真実のものだ。
『あの子も、友達はできたと言いながら、まだこの家には一度も上げた事がありませんでした』
『………』
『ですから…今少しだけ、ほんの少しですけれど、安心しました。
 …短い間でもあの子と親しくしてくれた友達が本当にいた事。
 この部屋に訪れてくださった事、心から感謝します』
 母は涙を流しながら、微かに救われたような微笑を見せた。

 ─小鳥遊は死んでいた。
 できる事なら、それ全てを否定させて貰いたかった。
 それでも向き合った現実には陰鬱と鎮痛なる光景しか無かった。
 母の言葉は否定したくない。
 あの涙はあまりにも重かった。
(この3日間で? 笑ってごまかしていた?
 ううん、でもこの数週間、虐めは全然なくて小鳥遊クンも別人みたいに変わってた。
 何故? どうして、いつの間にこんな理不尽な状況に?)
 海優は、ほとぼりが醒めると再び小鳥遊の幻影にとりつかれ始める─。



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