第十話『魔物』


『ごめんなさい』

 路上に倒れた少女の唇は蒼かった。
 背中を袈裟懸けに一閃、それでいて心臓に達するまでの深さに斬りつけられている。
 そのまま身体が二つに千切れなかったのは、「彼」の僅かな慈悲だったのだろうか。
 きっと人気の無い裏路地に灯りがあれば、周囲が真っ赤に染まっている様が見て取れる事だろう。
『あの人にはかなわないけど、君の血、最高だったよ。
 小さな女の子の血ほど、優しくて甘い味がするのかも知れないね』
 闇夜の中で、腕から指先までをたっぷりと舐め上げながら「彼」が囁いた。
『でも君はもう起き上がれなくなってしまった。 僕と違って、ね…』
 少女─おそらく中学生だった。
 「彼」は少女の身体が冷えきって、人から骸(むくろ)へ変わった事を確認するように、頭から頬へと手を添え、撫でた。
 そして同じ言葉をもう一度繰り返した。
『ごめんなさい』

『………ありがとう』
 「彼」は舌なめずりをして微笑んだ。

『あ、あ…、あ…あ』
 「彼」が踵を返した時。
 冷えきった少女と同じような─暗がりの中でよくわからないが─制服の少女が声を漏らした。
『…なあに?』
 全身を少女の純血で浸した「彼」は、まるで平静かのように語りかけた。
『あ…あぁ…千鳥(ちどり)ちゃん…? 千鳥ちゃん…あ、うぅ…』
『…そっか、お友達?』
『そっちの道は…暗くて危ないからって…ちゃんといつもの道で一緒に帰ろって言ったのに…』
『ふ〜ん、友達っていいよね、心配してくれる子がいるものね』
 邪悪なる紫の闇を立ち上らせながら、返り血を浴びた「彼」はにこにこと笑って言った。
『ち、ちど…千鳥ちゃあん、早く、き、救急車…あぅ…、ああぁっ!』
 仲むつまじかったであろう友人の惨殺現場で、彼女の幼い精神は破綻─錯乱せずにはいられないようだ。
 呂律は回らず、悲鳴が混じり、行動を起こそうにも泣きじゃくるしかできない。
『ね、ね、キミさ』
 そんな彼女にはお構いなしに「彼」は異常に調子よく声をかける。
『っぐ、はぅ…あ、あぁっ』

『どの辺から見てたの』

『あ、そ…の、あ、えっと、えっと…あ…うぅ…いやあぁあぁーっ!』
 一部始終。 もう言わずとも伝わってくる。
 絶望に、少女ががくりと脱力して膝がアスファルトに着く─その刹那よりも速く。
 ショートヘアの「なにか」が身体から離れ、その髪を振り乱しながら宙高く舞った。
 遠くか近くか、どさり、どこかに「なにか」が落ちた音が聞こえた。
 だが「彼」はそれを確認しようとはしなかった。
 薄く光る、質量を持たぬカミソリ。 総ては「彼」の意志のままに。
 「憎悪の刃」。
 惨事の後で現れたもう一人の少女も、正座するような形で、ばさりと俯せに倒れた。
 何も無い首から、勢い良く鮮血を路上に吹き付けて。

(…予定外だった)
(僕は最初の娘だけで満足していたのに)
(見られていた、それだけだ、それだけで、血を得る行為とは無縁な─殺人をしてしまった)
(僕はもう満足して帰ろうと思っていたんだよ)
(けど、そこに君が隠れてたって言うから…)

(つい、首をはねてしまった)

(…ごめん、なさい。 …今度はホントだよ)
 この前の、あの人の涙を受け止めた胸がドクンと痛んだ。
 まだ闇夜が色濃いうち、闇夜の中へと同化するように「彼」はそこから去った。

 無残極まりない「事件」から一夜が明けた。
 そしてその晩、場所は変わり商店街の小さなラーメン屋。
 ビールのジョッキとスポーツ新聞を手に、くたびれた背広の男達が談笑する。
『今度は女子中学生だってよ、しかも2人もまとめてだ』
『同じ市内でも今度は外れの方らしいな、ここんとこ胸くそ悪ィな、一体どうなってやがる』
『相変わらず凶器が特定できんとさ。 一番近いのは熟達した日本刀の技!?
 なーんて書いてっけどさ、んなモンぶら下げてたら即・職質だろうが、アホ新聞』
『遺留品も犯人の身体の組織も何の証拠も出ないだあ〜? 本気でやってんのかよ、国家権力。
 なぁんかお得意の隠蔽工作してんじゃねえの? そんで善良な市民の不安を煽ったりよ』
『なはは、少なくともアンタは不安になるタマじゃねーだろ。
 第一うら若き乙女や高校生がやられてんだぜ。
 こんな小汚いシケたオッサンが狙われるかーってんだ』
『んだとォ、てめえ今なんつったあー!?』
 がはははは、と下品な笑い声が響く。

(ったく耳障りねぇ〜酔っ払いはッ)
 一番隅のカウンターで豚骨ラーメンを静かにすする銀髪の女は、事件の手掛かりと食料を求めてやって来たのだった。
 足元にヒラリと、コップの水滴やら、こぼれたビールやらでヨレヨレになった例の新聞が落ちてきた。
 ハシゴとばかりに去っていった中年連中に気兼ねなく、女はその胡散臭いスポーツ新聞の一ページを見た。
(…んーん、まあ明らかにオカルトってやつだから、単なる世俗の人間にはどうしようもないケド)
(物理的に起こり得ない力の付加、押し潰れる事無く切ったままの切断面、謎の刃物…)
(うん、やはり間違いなく「情魔」だわ。 能力(ちから)も、やってる事も悪魔そのもの)

(…空中に漂う、ヒトの負の感情の集合体…「無念」)
(無念はただ沈殿しているだけだけれど、増殖して固まったり、魔力を帯びれば意識を持った「情魔」へと変わる。
 怨念、歪んだ欲望、苦悩に苦痛、やり場のない憎悪、誰にも聞こえない心の叫びの亡霊。
 そんなものが意志を持ち、邪悪な資質や空虚な心を持つ人間を選び、カラダを得ようとする…。
 「情魔」に取り憑かれた人間が、それから起こる心身の異変をすんなり受け入れたら。
 自身が人間でなくなっていく事に、開き直れるならば)
(それは紛れもない、現代の常識を超えた化け物になる…!
 特にこいつは危険すぎる、早く目星を付けなければ…
 このとんでもない魔物にっ!)
 ギリッ………。

 パッリィィ───ン。
『あっ、あらら?』
『…お客さん、すげえ握力やね…』
『い、いえそんなっ! ワタクシちょっと水飲もうとして力んじゃったかなーみたいな?
 あは、あはは。 あ、弁償とか…』
『いや、いい、いい。 お客さんが怪我してなけりゃ。
 しかしウチのコップなんざ創業以来、握り潰された事なんか無いんだがなあ』
 テーブルにぶちまけられた水とガラスの破片を雑巾でサッサと片付ける店主。
『い、いえ、いいですわ、お詫びにと言ってはなんだけど餃子ライス追加しますから…』
『あいよ、餃子ライス1〜っ』
(はぁ………)

 この謎めいた銀髪の女。
 彼女が追い続ける「魔物」は、今も街の何処かでうごめいているに違いないのだ。



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