【人生について考える今日】

 冬の朝だった。
 立ち尽くす僕の息は吐くそばから白く静かに凍りついていく。
 僕はあるアパートの一室を見上げていた。
 まだ、勇気がわかなかった。
 できる事なら限りなく偶然に近い形で「あのひと」に再開したかった。

 僕はまだ、自分がここにいる事が許されないような、気まずい気持ちにつきまとわれていた。
 マフラーで口元を隠すようにして厚着した出で立ちを怪しむ人はいないだろうか。
 今ここに、僕の存在を正当化してくれる味方は独りとしていなかった。
 ただ一人「あのひと」を除いて─。

 僕は、

 今日勇気を絞り出して、この世界との繋がりを求めに来たんだ。
 そう思うとまた足がすくむ。
 幸い、僕の中の「陰」はなりを潜め、僕を不安の中へと引きずり込む気配は無い。
 …そう、無い、と言い切れるまでに僕は成長できたはずなんだ。
 だから、しぐれさん。
 あの柔らかいランプの灯りが染み出す蒼いカーテンを、気まぐれにそっと開いて、見下ろしてみてくれないか。
 僕はここにいるから。

 それから僕は、しばらく窓を眺め、不審者と思われやしないかと急に心配になって路地から去った。
 汚れなき早朝の冷たい空気は、いつも『外の世界』へ赴く僕を試すかのような厳かさを感じさせる。
 ─僕はある公園に向かって歩いていた。 昔から知っていた場所。 緑深い広場だった。
 内気だった僕にとって、気の休まる所。
 学校─行っていた時期は─から逃げ出して、青葉の薫りに元気づけられた日。
 いい場所なのに、人気は少なくて、僕の城のようだった、あそこへ。
 静寂極まる空間、僕の靴が擦れる音だけ響く道へ。 吸い込まれるように僕は行く。

 憧憬と、
 より澄んだ空気と、
 安心感を求めて。

『あのう、』

 園内の小さな橋に立ち尽くしていた僕の横顔に、声をかける女性がいた。
 刹那、僕は戦慄を覚えた。
 世界で一人僕のことを知っている女性(ひと)─。
 本当の僕を知っている、唯一の人。
 忘れもしない、この慈愛を感じる声─。
 即座に…ゆっくりと…振り返る。 そして、僕は声を発する。

『しぐれ…さん』

 僕をつなぎ止めてくれる唯一の人。

『大きくなりましたね…坊ちゃま』
『……ああ、今こうして君に逢いに歩けるようになったのも』
『あ…今は、一史(かずふみ)さんとお名前でよぶべきかしら…。
 もう、私は部外者ですものね?』
 しぐれさんは、中流程度の僕の家─家の自慢なんか、したくもないが─で働く家政婦だった。
 そんなに大した事のない、見栄ばかりの家だったから、家政婦はしぐれさん一人。
 そう、親父の見栄のうちだった。 僕の家には幼い頃から代わる代わる、見目麗しい妙齢の家政婦が一人いた。
 だいたい数カ月の契約を終えるとまた新しいベテランの家政婦が入ってくる。
 …だが僕は、決して健康な男子ではなかった。

 長い間、自室だけが僕の見つめる世界だった。
 そこを侵す者は誰一人いない。
 端から見たって、誰にも解らない、僕の苦悩。
 心に潜む「陰」、胸を締め付ける発作、遠く霞む光、どろどろと流れる漠然とした恐怖─発作。
 僕は部屋を出る事はなかった。 表で「陰」に苛まれる姿を見せたくなかったから。
 社会的に言えば、僕は当時中学生にあたる年頃だった。
 不登校になった息子を、親父は厳しく、激しく叱咤した。
 昔から、昔から、母さんは僕が涙を見せると同じように叱りつけた。
 物心ついた時から僕は隠れて泣いていた。
 怖いものの何一つ無い自分の部屋で。
 深夜にノックがあったあの日を忘れない。
 泣いていた僕の所へあの人が来てくれた日の事を。

『失礼します…坊ちゃま』
 何故わかったのだろう? 灯りがついていたから?
『お側に…寄ってもよろしいでしょうか?』
 僕は枕に顔を伏したままじっと、動かず、何も言わなかった。
 泣き顔を見せるのが怖かったから。 小さな頃から心の芯に仕込まれてきた調教。
 泣いたら叱られる…泣いたら叱られる…泣いたら…。
 泣き顔は絶対に見せちゃ、
『坊ちゃま』
 いけないんだ…。

 しぐれさんが、僕の頭を撫でていた。
『失礼します…坊ちゃま、お辛かったですものね…あんなに御両親に叱られて…。
 けれども私は、一介の家政婦ですから、家庭に立ち入るような事はしてはならないのです。 それでも来てしまいました。
 お顔を上げて、大丈夫だから…私は叱りに来たのではありません、だから』
『………』

『あの時の泣き顔、酷かったろう、一晩中泣いていたから』
『いいえ…素直になってくださって、安心しました、余計な事では無かったのかと…』
『初めて、他人の胸で泣いたよ、母親も、きつかったからね…。
 血縁上の母はあの人でも、しぐれさんが僕のお母さんだと今でも思ってるよ。
 今でも理由もなく苦しくなる事があるけど、そんな時はしぐれさんの…』
 僕はマフラーの下からロケットペンダントを取り出した。
 しぐれさんが辞めてしまう時、撮らせて貰った一番大切な写真。
『嫌ですわ、そんな』
 しぐれさんは手を口元に当てて品良く照れ笑いした。
『ただ、暗い部屋でがんじがらめになって、飛べない鳥のようだった坊ちゃまが…。
 いたたまれなくなって、ついつい出過ぎた真似をしてしまって…』
『夜の出来事は見つかったら、大事だったかもしれないね。
 でも、あの夜があったから、僕はこうしてここにいるんだ、この世界の上に』

 ふたり。 しばらく無言で並んで橋を歩いた。
 しぐれさんの目はまだどこか戸惑っているように見えたから、僕は近況を話す事にした。
『しぐれさん、僕、今心療内科に通いながら勉強してるんだ、夜間部で。
 あんなになじられて叱られた僕が高校生になれたんだ、でもそんなの親の意思じゃない。
 しぐれさんに心配かけたくないって、心底思ったんだ…』
 早朝の風が吹き抜けていく。
『そう…よく、頑張りましたわね。
 ずっと、少しだけだけども、あなたの事がいつでも気がかりで』
 僕は少々おどけてみせた。
『これから年末の連休さ、ね、できたらどこかへ一緒に旅行しようよ』
『ふふ、それはね』

『時間が経って、坊ちゃまがもう少しだけ大人になってから─』

 しぐれさんは心を育ててくれた母であっても、女性としてはまだまだ、僕より上手だ。
 最後に僕は聞いた。
『しぐれさん…眼鏡は?』
『普段は、コンタクトですよ』
 ごく自然に微笑んで見せた彼女は、僕のメイド「しぐれさん」ではなく、プライベートの「北山しぐれ」その人だった。
 朝の公園はすっかり白い光に包まれて、眠っていた小鳥達の囀りが響きはじめる。
 僕はしぐれさんと挨拶を交わして別れた。
 次に逢う時は、もっともっと、しっかりした人間になるんだ!

by Wagtail 2008/4/28